て、ごきげんよう」
「ごきげんよう、どうもいろいろと……」
頭を下げたが、しかし彼女は立ち去ろうとしなかった。
「どうぞもう……。御遠慮なく……。市電がなくなるといけませんから」
もう夜の十時十八分であった。
「でも、あと二分ですから、見送らせていただきますわ」
時計を見て、言った。発車は十時二十分である。
「二分か。この二分の間に、俺は何か言わねばならない」
と、白崎はひそかに呟いた。
「――しかし、何を言えばいいんだろう。いや、俺の言いたいことって一体何だろう」
そう呟きながら、白崎はホームに立っている彼女の顔をしみじみと見た。その匂うばかりの美しさ!
「しかし、奇遇でしたね」
と、思わず白崎は言った。
「――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはないよりあった方がいいもんですなア。どんないやな奴でも、道連れがいないよりあった方がいい」
「あらッ、じゃ、私はそのいやな奴ですの?」
「いや、そんなわけでは……。いや、断じて……」
「べつに構いませんわ」
白崎が狼狽しているので、彼女はふっと微笑した。すると、白崎はますます狼狽して、
「困ったなア。いや、けっしていやな奴では……。いや、全くいい道連れでしたよ。しかし、思えば不思議ですね。元来、僕は音痴で、小学校からずっと唱歌は四点で、今でも満足に歌える歌は一つもありません。その僕が声楽家のあなたと道連れになるなんて……。いや、実際ひどい音痴でしてね。だから歌は余り好きな方じゃなかったんですよ。いや、むしろ大きらいな方なんですよ」
言っているうちに、白崎は、ああ俺は何てへまなことを言ってるんだろうと、げっそりした。だから、すぐ、
「しかし、今は歌が……」
好きになりましたよと言い掛けた途端、発車のベルが鳴り、そして汽笛の響きが言葉を消してしまった。
そして、汽車が動きだした。
「さよなら」
「さよなら」
白崎は、ああ、俺は最後に一番まずいことを言ってしまった。俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいる! と、がっかりしながら、しかし何か甘い気持が残った。
彼女の姿はやがて見えなくなった。
白崎はやっと窓から首をひっ込めて、そしてひょいと足許を見た途端、
「おやッ! このトランクは……?」
「あッ、あの娘さんのや」
と、赤井もびっくりしたような声を出した。
「渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?」
「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」
「それもそうだな。そう言えばたしかに、トランクを渡すのを忘れたのはうかつだったが、名前をきくのを忘れたのも、うかつだったな」
白崎はそう呟いた。
やがて、汽車が大阪駅につくと、白崎は赤井と別れて上本町のわが家に帰って行った。
ところが、帰ってみると、かつてのわが家の姿はもうそこになく、バラックの入口に「白崎」という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。
「やあ、うちもやられたんですか」
「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」
それが、父一人子一人の、久し振りの挨拶だった。
「荷物はそれだけか」
「少ないでしょう?」
「いや、多い。多すぎる。どうも近所に体裁が悪いよ。もっとも近所といっても、焼跡ばかしだが……」
「そう言われるだろうと思って、大阪駅の浮浪者に、毛布だとか米だとかパンだとか、相当くれてやって来たんですよ」
「ほう、そいつは殊勝だ」
「もっとも市電がなかったので、背中の荷を軽くしなければ焼跡を歩いて帰れませんからね」
「そんなことだろうと思ったよ。しかし、ついでにそのトランクもくれてやって来たのなら、なお良かったんだが……」
「いや、これはだめですよ。こりゃ僕のじゃありませんからね」
「じゃ、誰のだ」
「あはは……」
「変な笑い方をするなよ。あはは……。何だか胸に一物、背中に荷物ってとこかな。あはは……」
「あはは……」
父子は愉快そうに笑っていた。
丁度その頃、赤井は南炭屋町の焼跡にしょんぼり佇んでいた。
かつて、わが家のあったのは、この路地の中だと、さすがに見当はついたが、しかし、わが家の姿は勿論、妻や子の姿は、どこへ消えてしまったのか、まるで見当がつかなかった。
眼の底が次第に白く更け、白い風が白く走る寒々とした焼跡に、赤井はちょぼんと佇んでいたが、やがてとぼとぼと歩きだした。が、どこへ行こうとするのか、妻子を探す当てもなく、また、今夜の宿を借りる当てもない。
当てもないままに、赤井はひょこひょことさまようていたが、やがて耳の千切れるような寒さにたまりかねたのか、わずかの温みを求めて、足は自然に難波
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