、隊長の酒の肴を供出するような農民は昭和二十年の八月にはもういなかった。
「こんなスカタンな、滅茶苦茶な戦争されて、一時間のちの命もわからんようなことにされながら、いくら兵隊さんにでも、へいと言って出せるもんですか」
 そう言われると、二人は、
「自分たちもそう思います」
 と、うっかり(というより寧ろ本心から)そう答えてしまい、これでは手ぶらで帰るより仕方がなかった。
 しかし、聴けば、たった一軒、兵隊さんになら、どんなことでも喜んできくという「兵隊きちがい」の松尾という家があるという。
 二人は早速いそいそと松尾家を訪問した。ところが、
「鶏ですか。惜しいことをしましたよ。あればお安いことなんですが、うちに一羽残っていた奴を今さきつぶしてしまった所なんですよ。一足違いでしたよ」
 という返事である。
 しょんぼりと松尾家の玄関を出ると、
「どうせ、こんなことだろうと思った」
 と、白崎は赤井の顔を見ながら、苦笑した。白崎はかねがね、
「俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいるのだ」
 と、言っており、何か自分の運命というものに諦めをつけていたのである。
 やがて二人はとぼとぼ帰って行った。暮れにくい夏の日もいつか暮れて行き、落日の最後の明りが西の空に沈んでしまうと、夜がするすると落ちて来た。
 急いで帰らねば、外出時間が切れてしまう。しかし、このまま手ぶらで帰れば、咽から手の出るほどスキ焼きを待ちこがれている隊長の手が、狂暴に動き出して、半殺しの目に会わされるだろうことは地球が、まるい事実よりも明らかである。
 そう思うと、二人の足は自然渋って来た。
「撲られに帰るのに、あわてて帰る奴がいるものか」
 しかし急がねば遅れる。遅れたが最後無事には済むまい。
「脱走したくなるのはこんな時だなア」
 降るような星空を仰いで、白崎は呟いた。
「ほんまに、そやなア」
 赤井は隊の外へ出ると、大阪弁が出た。
「――しやけど、脱走したら非国民やなア」
「うん。しかし、蓄音機の前で浪花節を唸ったり逆立ちをしたり、徴発に廻ったりするのが立派な国民というわけでもないだろう」
「そない言ったら、そやなア」
「しかし、何だか脱走はいやだなア。卑怯だよ、第一……」
「ほな、撲られに帰るいうのやなア」
「いや」
 と、白崎は急に眼を光らせて、
「撲りに帰る」
「えっ、誰をや」
「蓄音機さ」
 白崎は古綿を千切って捨てるように言った。
「蓄音機に撲られるより、蓄音機を撲る方が気が利いてるよ。あの蓄音機め、こわしてやる。脱走よりは男らしいよ」
「えっ? 本まか?」
 赤井は思わず白崎の横顔を覗きこんだ。
「本まや」
 と、白崎も大阪弁をつかって、微笑した。
「――あの蓄音機は、士官学校を出て軍人を職業として選んだというただそれだけのことを、特権として、人間が人間に与え得る最大の侮辱を俺たちに与えながら、神様よりも威張ってやがる。おまけに、勝って威張るのは月並みで面白くないというので負けそうになってから、ますます威張り出しやがった。負けながら威張るのが、最大の威張り方だと、やに下っているんだろう。もっとも戦局がこうなって来れば、もう威張るよりほかに、存在の示し方がないと思ってるんだろう。――俺は兵隊として、蓄音機の侮辱を我慢するが、人間としてもう我慢できない。赤井、君は我慢できるか」
「いや、出来ん。あいつは、今日半日のうちに、俺のことを、七通りの呼び方で呼びやがった。「おい、屑!」「おい、蠅!」「おい、南京虫!」「おい、蛆虫!」「おい、しらみ!」「おい、百足!」「おい、豚!」――何をぬかしやがるんや。俺が豚やったら、あいつは、豚もあいつを見たら反吐をはく現糞の悪い奴ちゃ」
 ひょうきんな、落語家らしい言い方だったが、言っているうちに、赤井も次第に昂奮して来て、
「白崎はん、あんた蓄音機を撲るんやったら、俺も撲る! さア、行きまひょ。撲りに」
「よし、行こう!」
 二人は血相を変えて、隊へ帰って行った。そして、隊長の部屋へ、ものも言わずにはいって行った。
 が、隊長はいなかった。
「おい、隊長はどこだッ? 隊長はどこだッ? 蓄音機はどこだッ?」
「蓄音機は司令部へ行ったぜ」
 と、若い当番兵が答えた。
「今、司令部から電話掛って来て、あわてて駈けつけて行きやがった。赤鬼みたいに酔っぱらっとったが、出て行く時は青鬼みたいに青うなっとったぜ。どうやら、日本は降伏するらしい。明日の正午に、重大放送があるということだ」
「えっ? 降伏……? 赤鬼が青鬼になった……? ふーん」
 白崎は思わず唸ったが、やがて昂奮が静まって来ると、がっくりしたように、
「俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいるんだ」
 と、呟いた。

    
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