とある筈だ。旧円の預け入れの時想いだしたんだが、どの本に入れて置いたのか忘れてしまったから、探すのはやめた。いちいち探してると、朝まで掛って、その間原稿は書けんからね」
「しかし、奥さんにそう言って、探して貰えばよかったに」
「原稿を書いてる傍で、ごそごそ本をひっくりかえされるのは、仕事の邪魔だと思ったので、それもよしたよ」
「君のことだから、合服のポケットなんかに旧円がはいってやしないか。入れ忘れたままナフタリン臭くなってね」
「そうだ。そう言われてみると、はいってるかも知れんね」
と、済ました顔で、
「――以前は、財布を忘れて外出して弱ったものだが、しかし、喫茶店なんかのカウンターであっちこっちポケットを探っているうちに、ひょいと入れ忘れた十円札が出て来たりして、助かったことが随分あったよ」
「忘れて弱り、忘れて助かるというわけかね」
「しかし、これからはだめだ。探して出て来ても、旧円じゃ仕様がない」
「みすみす反古とは、変なものだね。闇市で証紙を売っていたということだが、まさかこんな風に出て来た紙幣に貼るわけでもないだろう」
そう言うと、彼は急に眼を輝した。
「へえ……? 証紙を売ってるって? 闇市で、そうか。たしかに売ってるのか。どこの闇市?」
「いやに熱心だが、買いに行くのか」
すると、彼は、
「誰が、面倒くさい、わざわざ買いに行くもんか。しかし、待てよ。こりゃ小説になるね」
そう言って、パイプに紅茶をつめると、急に喋りだした。
「――十人家族で、百円の現金もなくて、一家自殺をしようとしているところへ、千円分の証紙が廻ってくる。貼る金がないから、売るわけだね。百円紙幣の証紙なら三十円の旧券で買う奴もあるだろう。すると十枚で三百円だ。この旧券の三百円を預けるとそのまま新円で引き出せる。三百円あっても大したことはないが、三百円はいったということで、少し甦った気になるね。何かしら元気がついて、一人の子供が思い切って靴磨きに行く。この収入月にいくらすくなくても五百円になるだろう。いや、新円以後もっとすくなくて、三百円かな。じゃ、二人の子供が行けば六百円だ。親父は失業者だし、おふくろは赤ん坊の世話でかまけているとしても、二人の娘は前から駅で働いているから、二人で四百円ぐらい取るだろう。前の六百円と合わせて千円だ。普通十人家族で千二百円引き出せる勘定だが、千円と前の三百円、合わせて千三百円、一家自殺を図った家庭が普通一般の家庭と変らぬことになる――という筋は少し無理かな。いや、無理でなくするのが小説家の腕だ。――おい、君、仕事をはじめるから、帰ってくれぬか」
底本:「聴雨・蛍 織田作之助短篇集」ちくま文庫、筑摩書房
2000(平成12)年4月10日第1刷発行
初出:「新風」
1946(昭和21)年5月
入力:桃沢まり
校正:松永正敏
2006年7月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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