起ち上る大阪
――戦災余話
織田作之助
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)猪口才《ちょこざい》な
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)身体|動《いの》かす
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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この話に「起ち上る大阪」という題をつけたが、果して当っているかどうか分らない。或は「起ち上れ大阪」と呼び掛けるか、「大阪よ起ち上れ」と叫ぶ方が、目下の私の気持から言ってもふさわしいかも知れない。しかし、この一ト月の間――というのはつまり、過ぐる三月の、日をいえば十三日の夜半、醜悪にして猪口才《ちょこざい》な敵機が大阪の町々に火の雨を降らせたその時から数えて今日まで丁度一ト月の間、見たり聴いたりして来た数々の話には、はや災害の中から「起ち上ろうとする大阪」もしくは「起ち上りつつある大阪」の表情が、そこはかとなく泛んでいるように、少くとも私には感じられた。いや、もはや「起ち上った大阪」の表情であるといっても、まるで心にもないことをいったことにもなるまいと、思われる節もいくらかはある。
思えば、こうした表情も、たとえば一ト月前であったなら、或はそれと気づかずに終ったかも知れない。が、すでにして今日の大阪は昨日の大阪の顔ではない。昨日の大阪の顔は或は古く或は新しくさまざまな粧いを凝らしていたものだが、今日の大阪はすでに在りし日のそうした化粧しない、いわゆる素顔である。つまりは、素顔の中に泛んだ表情なのである。それだけに本物であり、そしてまた本物であるだけに、わざとらしい見せ掛けがなく、ひたむきにうぶであり、その点に私は惹きつけられたのだ。ありていにいえば、この「起ち上ろうとする」もしくは「起ち上りつつある」――更に「起ち上った」大阪の表情のあえかな明るさに、よしんばそれがそこはかとなき表情であるにせよ私は私なりに興奮したのである。明るさといい、興奮と言ったが、私は嘘を言っているのではない。商売柄嘘を書く才能は持っているが、しかし、いやそれだけに一層真実への愛は深い筈である。つまりは、言葉の持つ、ことに標語的な言葉の持つ空虚な響きには、何よりもまして本能的に警戒しているのが、私たちの職業である。だ
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