が、いや、だからして、以下の数々の話につけた「起ち上る大阪」という題も、思えばまるで見当ちがいの出鱈目なものではなかったかも知れない。しかし、前書はもうこれくらいで充分であろう。
 ある罹災者の話である。名前はかりに他三郎として置こう。そして私の好みに従って、他アやんと呼ぶことにする。
 他アやんは大阪の南で喫茶店をひらいている。この南というのは、大阪の人がよく「南へ行く」と言っているその南のことであり、私もまた屡※[#二の字点、1−2−22]「南へ行く」たびに他アやんの店へ寄っていたから、他アやんとは顔馴染みであった。
 私がこの他アやんを見舞ったのは、確か「復活する文楽」という記事が新聞に出ていた日のことであった。文楽は小屋が焼け人形衣裳が焼け、松竹会長の白井さんの邸宅や紋下の古靱太夫の邸宅にあった文献一切も失われてしまったので、もう文楽は亡びてしまうものと危まれていたが、白井さんや古靱太夫はじめ文楽関係者は罹炎[#「罹炎」はママ]に屈せず、直ちにこの国宝芸術の復活に乗りだしたのである。即ち、まず民間の好事家の手元に残っている人形を狩り集め、足らぬ分は阿波の人形師が腕によりを掛けて作ろうと申し出たということであり、準備が出来次第新しい旗上げ興行を行うというこの記事ほど、時宜に適った新聞記事を最近私は読んだことがない。輿論指導の下手糞な近頃の新聞としては、書きも書いたりと思われた。早い話が、この記事を読んだ大阪の人びとは、何ものにもへこたれない大阪人の粘り強さというものに改めてわが意を強うしたであろうし、また、散っても散っても季節が来れば咲くという文化の花の命永さに、今年の春をはじめて感ずる思いを抱いたことであろうし、ひいては大阪の復興に自信が持てたことであろうし、あれこれ思い合せるとまことに「春は文楽復活の記事に乗って」大阪へ来たかの感があった。ともあれ、私は何がなし嬉しく、いそいそとした気持でその日大阪へ出掛け、他アやんを見舞ったのである。
 実のところ、他アやんはもうどっかへ疎開していて、会えないだろうと私は諦めていた。ところが、行ってみると、他アやんは家族の人たちと一緒にせっせと焼跡を掘りだしていて、私の顔を見るなり、
「よう、織田はん、よう来とくなはった。見とくなはれ、ボロクソに焼けてしまいました。さっぱり、ワヤだすわ」
 と言ったが、他アやんはべつに「
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