った。
四十時間一睡もせずに書き続けて来た荒行は、何か明治の芸道の血みどろな修業を想わせるが、そんな修業を経ても立派な芸を残す人は数える程しかいない。たいていは二流以下のまま死んで行く。自分もまたその一人かと、新吉の自嘲めいた感傷も、しかしふと遠い想いのように、放心の底をちらとよぎったに過ぎなかった。
ただ、ぼんやりと坐っていた。うとうとしていたのかも知れない。電車のはいって来た音も夢のように聴いていた。一瞬あたりが明るくなったので、はっと起ち上ろうとした。が、はいって来たのは宝塚行きの電車であった。新吉の待っているのは、大阪行きの電車だ。
がらんとしたその電車が行ってしまうと、向い側のプラットホームに人影が一つ蠢いていた。今降りたばかりの客であろう。女らしかった。そわそわとそのあたりを見廻しながら、改札口を出て暫く佇んでいたが、やがてまた引きかえして新吉の傍へ寄って来た。四十位のみすぼらしい女で、この寒いのに素足に藁草履をはいていた。げっそりと痩せて青ざめた顔に、落ちつきのない表情を泛べ乍ら、
「あのう、一寸おたずねしますが、荒神口はこの駅でしょうか」
「はあ――?」
「ここは荒神口でしょうか」
「いや、清荒神です、ここは」
新吉は鈍い電燈に照らされた駅名を指さした。
「この辺に荒神口という駅はないでしょうか」
「さア、この線にはありませんね」
「そうですか」
女はまた改札口を出て行って、きょろきょろ暗がりの中を見廻していたがすぐ戻って来て、
「たしかここが荒神口だときいて来たんですけど……」
「こんなに遅く、どこかをたずねられるんですか」
「いいえ、荒神口で待っているように電報が来たんですけど……」
女は半泣きの顔で、ふところから電報を出して見せた。
「コウジ ング チヘスグ コイ。――なるほど。差出人は判ってるんですか」
新吉が言うと、女は恥かしそうに、
「主人です」と言った。
「じゃ、荒神口に御親戚かお知り合いがあるわけですね」
「ところが、全然心当りがないんです。荒神口なんて一度も聴いたことがないんです」
「しかし、おかしいですね。荒神口に心当りがあれば、たぶんそこで待っておられるわけでしょうが、そうでないとすれば、駅で待っておられるんでしょうね。しかしスグコイといったって、この頃の電報は当てにならないし、待ち合わす時間が書いてないし、電報を受け取られたあなたが、すぐ駈けつけて行かれるにしても、荒神口というところへ着かれるのが何時になるか、全然見当がつかないでしょう。それまで駅で待っているというのはなかなか……。せめて何時に待つと時間が書いてあれば、あれでしょうが……」
「私もおかしいなと思ったんですけど、とにかく主人が来いというのですから、子供に晩御飯を食べさせている途中でしたけど、あわてて出て来たんです」
乱れた裾をふと直していた。
「御主人だということは判ったんですね」
新吉はふと小説家らしい好奇心を起していた。
「近所の人に見て貰いましたら、これは大阪の中央局から打っているから、行って調べて貰えと教えて下すったので、中央局で調べて貰いましたら、やっぱり主人が打ったらしいんです」
「お宅は……?」
「今里です」
今里なら中央局から市電で一時間で行けるし、電報でわざわざ呼び寄せなくともと思ったが、しかし、それを訊くのは余りに立ち入ることになるので新吉は黙っていると、女は、
「――ウナで打っているんですけど、市内で七時間も掛ってますから、間に合わないと思いましたが、とにかく探して行こうと思って、いろいろ人にききましたら、荒神口という駅はないが、それならきっと清荒神だろうと言って下すったので、乗って来たんですけど……」
ほかに荒神口という駅があるのでしょうかと、また念を押すのだった。
「さア、ないと思いますがね」
と新吉が言っているところへ、大阪行きの電車がはいって来た。
「――ここで待っておられても、恐らく無駄でしょうから……」
この電車で帰ってはどうかと、新吉はすすめたが、女は心が決らぬらしくもじもじしていた。
結局乗ったのは、新吉だけだった。動き出した電車の窓から見ると女は新吉が腰を掛けていた場所に坐って、きょとんとした眼を前方へ向けていた。夜が次第に更けて来るというのに、会える当てもなさそうな夫をそうやっていつまでも待っている積りだろうか。諦めて帰る気にもなれないのは、よほど会わねばならぬ用事があるのだろうか。それとも、来いと言う夫の命令に素直に従っているのだろうか。
電車の中では新吉の向い側に乗っていた二人の男が大声で話していた。
「旧券の時に、市電の回数券を一万冊買うた奴がいるらしい」
「へえ、巧いことを考えよったなア。一冊五円だから、五万円か。今、ちびちび売って行けば、結局
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