童子もよくこれを知っているといいたいところである。円い玉子はこのように切るべきだと、地球が円いという事実と同じくらい明白である。しかし、この明白さに新吉は頼っておられなかったのだ。よしんば、その公式で円い玉子が四角に割り切れても、切れ端が残るではないかと考えるのだ。
新吉は世相を描こうとしたその作品の結末で、この切れ端の処理をしなければならなかった。が、三時になっても、それが出来なかった。一つには、もうすっかり頭が疲れ切っていた。考える力もなく、よろよろと迷いに迷うて行く頭が、ふと逃げ込んで行く道の彼方には、睡魔が立ちはだかっている。
新吉の心の中では火のついたような赤ん坊の泣声が聴えていた。三時になれば眠れると思ったのに、眠ることの出来ない焦燥の声であった。苦しい苦しいと駄々をこねていた。どうせ間に合わないのだから、一月のばして貰って、次号に書くことにしようと、新吉は赤い眼をこすりながら、しょんぼり考えた。しかし、新吉は今朝東京のその雑誌社へ「ゲ ンコウイマオクッタ」オマチコウ」とうっかり電報を打ってしまったのだ。もう断るにしては遅すぎる。しかし間に合わない。三時を過ぎた。
編輯者の怒った顔を想像しながら、蒲団のなかにもぐり込んで、眼を閉じた途端、新吉はふと今夜中に書き上げて、大阪の中央郵便局から速達にすれば、間に合うかも知れないと思った。近所の郵便局から午後三時に送っても結局いったん中央局へ廻ってからでなければ、汽車には乗らないのだ。
そう思うと、新吉はもう寝床から這い出していた。そしてまず注射の用意をした。覚醒昂奮剤のヒロポンを打とうとしたのだ。最近まで新吉は自分で注射をすることは出来なかった。医者にして貰う時も、針は見ないで、顔をそむけていたくらいである。ところが、近頃のように仕事が忙しくて、眠る時間がすくなくなって来ると、もうヒロポンが唯一の頼りだった。夜中、疲労と睡魔が襲って来ると、以前はすぐ寝てしまったが、今は無理矢理神経を昂奮させて仕事をつづけねば、依頼された仕事の三分の一も捗らないのである。背に腹は代えられず、新吉はおそるおそる自分で注射をするようになった。ヒロポンは不思議に効いたが、心臓をわるくするのと、あとの疲労が激しいので、三日に一度も打てない。しかし、仕事のことを考えると、そうも言っておれないので、結局悪いと思い乍ら、毎日、しかも日によっては二回も三回も打つようになる。その代り、葡萄糖やヴィタミン剤も欠かさず打って、辛うじてヒロポン濫用の悪影響を緩和している。
新吉は左の腕を消毒すると、針を突き刺そうとした。ところが一昨日から続けざまにいろんな注射をして来たので、到る所の皮下に注射液の固い層が出来て、針が通らない。思い切って入れようとすると、針が折れそうに曲ってしまう。注射で痛めつけて来たその腕が、ふと不憫になるくらいだった。
新吉は左の腕は諦めて、右の腕をまくり上げた。右の腕には針の跡は殆どなかったが、その代り、使いにくい左手を使わねばならない。新吉はふと不安になったが、針が折れれば折れた時のことだと、不器用な手つきで針の先を当てた。そして顔を真赤にして唇を尖らせながら、ぐっと押し込んでいると、何か悲しくなった。こんなにまでして仕事をしなければならない自分が可哀想になった。しかし、今は仕事以外に何のたのしみがあろう。戦争中あれほど書きたかった小説が、今は思う存分書ける世の中になったと思えば、可哀想だといい乍ら、ほかの人より幸福かも知れない。よしんば、仕事の報酬が全部封鎖されるとしても、引き受けた仕事だけは約束を果さねばならないと、自虐めいた痛さを腕に感じながら、注射を終った。
書き上げたのは、夜の八時だった。落ちは遂に出来なかったが、無理矢理絞り出した落ちは「世相は遂に書きつくすことは出来ない。世相のリアリティは自分の文学のリアリティをあざ嗤っている」という逆説であった。何か情けなくて、一つの仕事を仕上げたという喜びはなかった。こんなに苦労して、これだけの作品しか書けないのか、と寂しかった。
そして、その原稿を持って、中央局へ行くために、とぼとぼと駅まで来たのだった。郵便局行きは家人にたのんで、すぐ眠ってしまいたかったが、女に頼むには余りにも物騒な時間である。それに、陣痛の苦しみを味わった原稿だと思えば、片輪に出来たとはいえ、やはりわが子のように可愛く、自分で持って行って、書留の証書を貰って来なければ、安心出来ないという気持もあった……。電車はなかなか来なかった。
新吉はベンチに腰掛けながら、栓抜き瓢箪がぶら下ったようなぽかんとした自分の姿勢を感じていた。
新吉はよく「古綿を千切って捨てたようにクタクタに疲れる」という表現を使ったが、その古綿の色は何か黄色いような気がしてならなか
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