五万円の新券がはいるわけだな」
「五十銭やすく売れば羽根が生えて売れるよ。四円五十銭としても、四万五千円だからな」
「市電の回数券とは巧いこと考えよったな。僕は京都へ行って、手当り次第に古本を買い占めようと思ったんだよ。旧券で買い占めて置いて、新券になったら、読みもしないで、べつの古本屋へ売り飛ばすんだ」
「なるほど、一万円で買うて三割引で売っても七千円の新券がはいるわけだな」
「しかし、とてもそれだけの本は持って帰れないから、結局よしたよ。市電の回数券には気がつかなかった」
「もっとも新券、新券と珍らしがって騒いでるのも、今のうちだよ。三月もすれば、前と同じだ。新券のインフレになる」
「結局金融措置というのは人騒がせだな」
「生産が伴わねば、どんな手を打っても同じだ。しかもこんどの手は生産を一時的にせよ停めるようなものだからな。生産を伴わねば失敗におわるに極まっている。方法自体が既に生産を停めているのだからお話にならんよ」
二人はそこで愉快そうに笑った。その愉快そうな声が新吉には不思議だった。しかし、新吉はもうそんな世間話よりも、さっきの女の方に関心が傾いていた。
あんな電報を打った女の亭主は、余程無智な男に違いない。電報の打ち方をまるで知らないかと思われる。しかしまた思えば、そんな電報を打つところに、その男の何かせっぱ詰まったあわて方があるのかも知れない。そしてまた、普通の女ならさっさと帰ってしまうだろうに、いつまでも清荒神の駅に佇んでいる女の気持も、従順とか無智とかいうよりも、何か思いつめた一途さだった。
新吉の勘は、その中年の男女に情痴のにおいをふと嗅ぎつけていた。情痴といって悪ければ、彼等の夫婦関係には、電報で呼び寄せて、ぜひ話し合わねばならぬ何かが孕んでいるに違いない。子供に飯を食べさせている最中に飛び出して来たという女のあわて方は、彼等の夫婦関係がただごとでない証拠だと、新吉は独断していた。夜更けの時間のせいかも知れない。
しかし、ふと女が素足にはいていた藁草履のみじめさを想いだすと、もう新吉は世間に引き戻されて情痴のにおいはにわかに薄らいでしまった。
どうしても会わねばならないと思いつめた女の一途さに、情痴のにおいを嗅ぐのは、昨日の感覚であり、今日の世相の前にサジを投げ出してしまった新吉にその感覚がふと甦ったのは当然とはいうものの、しかし女の一途さにかぶさっている世相の暗い影から眼をそむけることはやはり不可能だった。
しかし、世相の暗さを四十時間思い続けて来た新吉にとっては、もう世相にふれることは反吐が出るくらいたまらなかった。新吉はもうその女のことを考えるのはやめて、いつかうとうとと眠っていた。
揺り動かされて、眼がさめると、梅田の終点だった。
原稿を送って再び阪急の構内へ戻って来ると、急に人影はまばらだった。さっきいた夕刊売りももういない。新吉は地下鉄の構内なら夕刊を売っているかも知れないと思い、階段を降りて行った。
阪急百貨店の地下室の入口の前まで降りて行った時、新吉はおやっと眼を瞠った。
一人の浮浪者がごろりと横になっている傍に、五つ六つ位のその浮浪者の子供らしい男の子が、立膝のままちょぼんとうずくまり、きょとんとした眼を瞠いて何を見るともなく上の方を見あげていた。
そのきょとんとした眼は、自分はなぜこんな所で夜を過さねばならないのか、なぜこんなひもじい想いをしなければならないのか、なぜ夜中に眼をさましたのか、なぜこんなに寒いのか、不思議でたまらぬというような眼であった。
父親はグウグウ眠っている。その子供も一緒に眠っていたのであろう。がふと夜中に眼を覚ましてむっくり起き上った。そして、泣きもせず、その不思議でたまらぬというような眼をきょとんと瞠いて、鉛のようにじっとしているのだ。きょとんとした眼で……。
新吉は思わず足を停めて、いつまでもその子供を眺めていた。その子供と同じきょとんとした眼で……。そして、あの女と同じきょとんとした眼で……。
それはもう世相とか、暗いとか、絶望とかいうようなものではなかった。虚脱とか放心とかいうようなものでもなかった。
それは、いつどんな時代にも、どんな世相の時でも、大人にも子供にも男にも女にも、ふと覆いかぶさって来る得体の知れぬ異様な感覚であった。
人間というものが生きている限り、何の理由も原因もなく持たねばならぬ憂愁の感覚ではないだろうか。その子供の坐りかたはもう人間が坐っているとは思えず、一個の鉛が置かれているという感じであったが、しかし新吉はこの子供を見た時ほど人間が坐っているという感じを受けたことはかつて一度もなかった。
再び階段を登って行ったとき、新吉は人間への郷愁にしびれるようになっていた。そして、「世相」などという言葉は
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