った時、寺田はおやっと思った。淀で見たジャンパーの男が湯槽《ゆぶね》に浸《つか》っているではないか。やあと寄って行くと、向うでも気づいて、よう、来ましたね、小倉へ……と起そうとしたその背中を見た途端、寺田は思わず眼を瞠《みは》った。女の肌のように白い背中には、一という字の刺青《いれずみ》が施《ほどこ》されているのだ。一――1――一代。もしかしたらこの男があの「競馬の男」ではないか、一の字の刺青は一代の名の一字を取ったのではないかと、咄嗟《とっさ》の想いに寺田は蒼ざめて、その刺青は……ともうたしなみも忘れていた。これですかと男はいやな顔もせず笑って、こりゃ僕の荷物ですよ、「胸に一物、背中に荷物」というが、僕の荷物は背中に一文字でね。十七の年からもう二十年背負っているが、これで案外重荷でねと、冗談口の達者な男だった。十七の歳から……? と驚くと、僕も中学校へ三年まで行った男だが……と語りだしたのは、こうだった。
 生まれつき肌が白いし、自分から言うのはおかしいが、まア美少年の方だったので、中学生の頃から誘惑《ゆうわく》が多くて、十七の歳女専の生徒から口説《くど》かれて、とうとうその生徒を妊娠させたので、学校は放校処分になり、家からも勘当された。木賃宿を泊り歩いているうちに周旋屋《しゅうせんや》にひっ掛って、炭坑《たんこう》へ行ったところ、あらくれの抗夫達がこいつ女みてえな肌をしやがってと、半分は稚児《ちご》苛《いじ》めの気持と、半分は羨望《せんぼう》から無理矢理背中に刺青をされた。一の字を彫《ほ》りつけられたのは、抗夫長屋ではやっていた、オイチョカブ賭博《とばく》の、一《インケツ》、二《ニゾ》、三《サンタ》、四《シスン》、五《ゴケ》、六《ロッポー》、七《ナキネ》、八《オイチョ》、九《カブ》のうち、この札《ふだ》を引けば負けと決っている一《インケツ》の意味らしかった。刺青をされて間もなく炭坑を逃げ出すと、故郷の京都へ舞《ま》い戻り、あちこち奉公《ほうこう》したが、英語の読める丁稚《でっち》と重宝《ちょうほう》がられるのははじめの十日ばかりで、背中の刺青がわかって、たちまち追い出されてみれば、もう刺青を背負って生きて行く道は、背中に物を言わす不良生活しかない。インケツの松《まつ》と名乗って京極《きょうごく》や千本の盛《さか》り場《ば》を荒しているうちに、だんだんに顔が売れ、
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