を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れたあとをうけ、慶応三年六月十七日、第九番目の末子として、彼川那子丹造が生れた頃は、赤貧洗うが如きであった。
新助は仲仕《なかし》を働き、丹造もまた物心つくといきなり父の挽《ひ》く荷車の後押しをさせられたが、新助はある時何思ったか、丹造に、祖先の満右衛門のことを語ってきかせた。
兄姉の誰もがまだ知らなかったこの話を、とくにえらんで末子の自分に語ってくれた父の心を想って、丹造は何か発奮し、祖先は金のためにまたとない恥をかいた。よし、このおれは……と、荷車の押す手に、思い掛けない力が籠って、父親の新助がおどろくくらいだった。
十六歳の時、丹造は広島をあとにして、立身出世の夢を宿毎に重ねて、大阪の土を踏んだ。時に明治十五年であった。
すぐに道修町《どしょうまち》の薬種問屋へ雇われたが、無気力な奉公づとめに嫌気がさして、当時大阪で羽振りを利かしていた政商五代友厚の弘成館へ、書生に使うてくれと伝手《つて》を求めて頼
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