一万九千円を抱いて、うろうろ狼狽するほどの喜び方だった。「渋い顔」なぞと書いているが、違う。あれは言葉の綾《あや》で、他の時は知らず、この時ばかりは、お前の渋い顔なぞいっぺんも見たことはない。
序でに言って置くが、この「渋い顔」という言葉に限らず、少なくともこのあたり「真相をあばく」の筆者は重大な手落ちをやっている。この支店長募集をすべてお前の頭からひねり出したように書いているが、また、そうして置く方が、お前の真相をあばく効果を強めることにもなるわけだろうが、むろんここへはおれの名を書きそえるところだった。いや、もっと正確を期するなら、一切合財おれが下図を描いたものとすべきだった。
そんな手落ちはあったが、その代り(といってはおかしいが)それに続く一節は、筆者の脚色力はさきの事実の見落しを補って余りあるほど逞しく、筆勢もにわかに鋭い。
――口に蜜ある者は腹に剣を蔵する。一人分八百円ずつ、取るものは取ったが、しかし、果して新聞の広告文通り約束を実行したかどうか。
なるほど、最初の一月は一提の薬と、固定給四十円を交付したが、その後は口実を構えて補給薬も固定給も送らない。家賃、電灯代も忘れた顔をしていたのだ。
そんな風に扱われては、支店長たちも自然自滅のほかはないと、切羽つまった抗議の手紙を殆んど連日書き送ったが、さらに効目はない。やっと返事が来たかと思うと、請求したくば、売り上げをもっと挙げてからにしろという文面だ。
そして、いきなり店員を遣って、支店長の外出中を襲わしめ、大事の商売を留守にして、外出とは何ごとか。それで支店長の責任が果せると思うのか。そんなありさまだから、成績があがらぬのだと、不意に逆ねじをくわせる。なお、売上台帳を調べて、難癖をつけるのだ。
例えば、背に腹はかえられず、困窮のあまり、つい台帳をごまかしたり、売上金を費消(――といっても、その中から固定給や家賃を無断借用しているだけのことだが、形式上は費消だ)しているのを発見すると、もうそれだけで、十分|馘首《かくしゅ》の口実にも保証金没収の理由にもなるのだった。
こうして、追っ払われた支店長は二三に止まらず、しかも、悪辣《あくらつ》なる丹造は、その跡釜へ新たに保証金を入れた応募者を据えるという巧妙な手段で、いよいよ私腹を肥やしたから、路頭に迷う支店長らの怨嗟《えんさ》の声は、当然高まった。
ある支店長のごときは、旅費をどう工面したのか、わざわざ静岡から出て来て、殆んど発狂同然の状態で霞町の総発売元へあばれ込み、丹造の顔を見た途端に、昂奮のあまり、鼻血を出して、
「川那子! この血を啜《すす》れ! この血を。おれの血の最後の一滴まで啜らせてやるぞ!」
と、呶鳴った。
もともと臆病な丹造は、支店長の顔を見るなりぶるぶるふるえていたが、鼻血を見るが早いか、あっと叫んで、小柄の一徳、相手の股をくぐるようにして、跣足《はだし》のまま逃げてしまい、二日居所をくらましていた……。
ここに到って「真相をあばく」もいよいよそれらしくなって来たが、同時に嘘めいて見える。事実また嘘だった。ことに鼻血のくだりなど、さすがにお前の臆病な性質を見抜いているという取得があるにせよ、誰が読んでも嘘だとわかる。また、保証金没収の一件にしても、そうだ。
一万九千円を握っただけで能事足れりとするような、けちな肚ならともかく、いくら何でも、そんな非合法な、かつ信用に関するような真似は、お前がやりたくても、おれがやらなかった。
そんな悪辣な手段ばかり弄《ろう》さなかった証拠には、第一期の(などといえば、語るに落ちるが)支店長で、後に川那子メジシンの首脳部に収まった連中が随分あった筈だ。もっとも、淘汰《とうた》した者も全然ないわけではなく、たとえば、売上げ金費消の歴然たる者は、罪状明白なりとして馘首、最初の契約どおり保証金は没収した。
しかし、これとても全然はなからの計画ではなく、冷酷といってしまえばそれまでだが、敢えて「あばく」に足るほどのことでもなかった。同じ「あばく」なら、書き洩らしたところに、もっと効果的な材料があった筈だ。
すなわち、成績のわるい支店の鼻の先に、何の前触れもなしに、いきなり総発売元の直営店を設置したのがそれだ。大阪でいうならば、難波の前に千日前、堂島の前に京町堀、天満の前に天神橋といったあんばいに、随所に直営店をつくり、子飼いの店員をその主任にした。
支店と直営店とは、だいいち店の構えからして違って、直営店に客が集まるのは当然のこと、支店の自滅策としてこれ以上の効果的な方法はなかったと、いまもおれは己惚れている。しかしこれも弁解すれば、結果から見てのこと、何も計画的に支店をつぶす肚ではなかった。
あって邪魔になるわけでもない支店をつぶすために
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