まり》に大阪弁のまじった言葉つきを嗤《わら》われながら、そこで三月、やがて自由党の壮士の群れに投じて、川上音次郎、伊藤痴遊等の演説行に加わり、各地を遍歴した……と、こう言うと、体裁は良いが、本当は巡業の人足に雇われたのであって、うだつの上がる見込みは諦めた方が早かったから、半年ばかり巡業についてまわったあげく、到頭飛び出して大阪へ舞い戻った。
断り無しに持って来た荷物を売りはらった金で、人力車を一台|購《か》い、長袖の法被《はっぴ》に長股引《ながももひき》、黒い饅頭笠《まんじゅうがさ》といういでたちで、南地溝の側の俥夫《しゃふ》の溜り場へのこのこ現われると、そこは朦朧俥夫《もうろうしゃふ》の巣で、たちまち丹造の眼はひかり、彼等の気風に染まるのに何の造作も要らなかった。
田舎出の客を見ると、五銭で大阪名所を案内してやる……と、寄って行く。そして、市中をガラガラ引き廻しながら、あやしげな名所案内の説明をやり、宿屋へ送りこむと、名所の説明代は一ヵ所五銭だ、六十ヵ所説明してやったから三円くれと、凄むのである。折柄、悪いところへ巡査《ガチャガチャ》が通り掛っても、丹造はひるまず折合ったところで、一円以下ではなかなかケリをつけなかった。当時、溝の側から貝塚まで乗せて三十六銭が相場で、九十銭くれれば高野山まで走る俥夫もざらにいた。
しかし、間もなく朦朧俥夫の取締規則が出来て、溝の側の溜場にも屡※[#二の字点、1−2−22]《しばしば》お手入れがあってみると、さすがに丹造も居たたまれず、暫らくまごまごした末、大阪日報のお抱え俥夫となった。殊勝な顔で玄関にうずくまり、言葉つきもにわかに改まって丁寧だったが、それが存外似合った。
一年ばかり、そこの記者衆を乗せて、出先と社の玄関を往復している間に、彼等の内幕やコツをすっかり覚えこんでしまったある雨の日、急に丹造の野心はもくもくと動きだして、よし、おれも一番記者になって……と、雨に敲かれた眼にきっと光を見せたが、しかし、お抱え俥夫から一足飛びに記者になろうというのは、町医者づきの俥夫が医者になろうというのと同然、とてものことに見込みはなかったから、いっそのこと、自身新聞社を経営してやろうと、丹造は本気で思い、この想いを毎日ガラガラ走らせていた。
横堀|筋違《すじかい》橋ほとりの餅屋の二階を月三円で借り、そこを発行所として船場《せ
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