んば》新聞というあやしい新聞をだしたのは、それから一年後のことであった。俥夫三年の間にちびちび溜めて来たというものの、もとより小資本で、発行部数も僅か三百、初号から三号までは、無料で配り、四号目には、もう印刷屋への払いが出来なかった。のみならず、いかに門前の俥夫だったとはいえ、殆んど無学文盲の丹造の独力では、記事の体裁も成りがたくて、広告もとれず、たちまち経営難に陥った。そこを助けたのが、丹造今日の大を成すに与って力のあった古座谷《こざたに》某である。古座谷はかつて最高学府に学び、上海《シャンハイ》にも遊び、筆硯《ひっけん》を以って生活をしたこともある人物で、当時は土佐堀の某所でささやかな印刷業を営んでいた……。
まず無難な書き方だ。あとでどう辛辣《しんらつ》に変ろうとも、また、そうでなくては「あばく」ことにもならないわけだが、ここらあたりまでは、お前も辛抱できるだろう。もっとも、二つの罰金刑を素っ破抜かれた点は、いくらか痛かろうが……。
嘘も無さそうだ。いや、一個所だけある。古座谷某が最高学府に学んだ云々《うんぬん》はあれは真赤な嘘だ。最高学府なんぞ出たからとて、べつだん自慢にも、世渡りのたしにも、……ことに今になっては……ならぬ故、どうでもよいことだが、しかし、まあ誤謬《ごびゅう》だけは正して置こう。実は、おれは中等学校へは二三年通ったことはあるが、それ以上の学問は、少なくとも学校と名のつくところでは、やらなかった。当のおれが言うのだから、間違いはなかるまい。
いや、そんなことは、どうでもよい。それよりも、「丹造今日の大を成すに与って……」云々と、ちゃんとおれの力を認めている点、これが問題だ。いま引いた文章にも書いてある通り、おれとお前の関係はこの船場新聞にはじまって以後いわば蔭になり日向《ひなた》になり、おれはお前を助けて来たのだ。早い話が、この時もしおれが居なければ、あの新聞は四号で潰《つぶ》れていたところだ。当時お前も、
「――古座谷さん、この恩は一生忘れませんぞ」
と、呶鳴《どな》るように言っていたくらい、随分尽してやったものだ。印刷は無論ただ同然で引き受けてやったし、記事もおれが昔取った杵柄《きねづか》で書いてやった。なお「蘆のめばえ咲分娘」と題して、船場娘の美人投票を募集するなど、変なことを考えついたのも、おれだった。これは随分当って、新聞は
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