ったろう。費用にしろ、よくまあ使ったと思えるくらい、たとえばれいの一万九千円も、薬種問屋の払いに使ったのはそのうちの二割、あとは全部広告費に使ったのだ。二万、三万ではきかなかった。
「――そんなに広告だして、どうするんです? 良い加減にしましょう」
 しまいにはお前も心配……いや、怒りだした。
「――莫迦! むかし新聞で食っていたこともあるというのに、訳のわからぬことをいうな。三千円の広告費で一万九千円の保証金を掴んだ味を忘れたのか。三万円使うても、四万円はいれば文句はなかろう」
 その通りだった。良きにつけ、悪きにつけ、川那子メジシンの名は凡そ新聞を見るほどの人の記憶に、日に新たに強く止まったのだ。六百円の保証金を軈《やが》て千五百円まで値上げしても、なお支店長応募者が陸続……は大袈裟《おおげさ》だが、とにかくあとを絶たなかった一事を以ってしてもわかるように、――むろん薬もおかしいほど売れた。
 効いたから、売れたのではない。いうまでもなく、広告のおかげだ。殆んど紙面の美観を台なしにしてしまうほどの、尨大かつあくどい広告のおかげだ。もっとも年がら年中医者の攻撃ばかしやっていたわけではない。
 そんな芸なしのおれではなかった。……

 ――其の後、売薬規則の改備によって、医師の誹謗《ひぼう》が禁じられると、こんどは肺病全快写真を毎日掲載して、何某博士、何某医院の投薬で治らなかった病人が、川那子薬で全快した云々と書き立てた。世の人心を瞞着《まんちゃく》すること、これに若《し》くものはない。何故か? 曰く、全快写真は殆《ほと》んど八百長である。
 いったい丹造がこの写真広告を思いついたのは、肺病薬販売策として患者の礼状を発表している某寺院の巧妙な宣伝手段に狙いをつけたことに始まり、これに百尺|竿頭《かんとう》一歩をすすめたのであるが、しかし、どう物色しても、川那子薬で全快したという者が見当らなかった。
 そこで、丹造は直営店の乾某がかつて呼吸器を痛めた経験があるを奇貨とし、主恩で縛りあげて、無理矢理に出鱈目《でたらめ》の感謝状と写真を徴発した。これが大正十年、肺病全快広告としてあらわれた写真の嚆矢《こうし》である。
 ついで、彼は全国の支店、直営店へ、肺病相談所の看板を揚げさせると同時に、全快写真を提供した支店、直営店に対しては、美人一人あたり二百円、多数の医師に治療を
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