存主義哲学などハイデガー、キェルケゴール以来輸入ずみみたいなものだが、実存主義文学運動が育つような文学的地盤がない。よしんば実存主義運動が既成の日本文学の伝統へのアンチテエゼとして起るとしても、しかし、伝統へのアンチテエゼが直ちに「水いらず」や「壁」や「反吐《へど》」になり得ないところが、いわば日本文学の伝統の弱さではなかろうか。フランスのようにオルソドックス自体が既に近代小説として確立されておればつまり、地盤が出来ておれば、アンチテエゼの作品が堂々たるフォームを持つことができるのだが、日本のように、伝統そのものが美術工芸的作品に与えられているから、そのアンチテエゼをやっても、単に酔いどれの悔恨を、文学青年のデカダンな感情で告白した文学青年向きの観念的私小説となり、たとえば肉体を描こうとしながら、観念的にしか肉体が迫って来ぬことになる。肉体を描いた小説が肉体的でない、――それほど日本の伝統的小説には新しいものをうみ出す地盤がなくて、しかも、権威だけは神様のように厳として犯すべからざるものだから、呆れざるを得ない。私が敢てサルトルを持ち出したのも、実はこのような日本文学の地盤の欠如を言い
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