るのは、老大家をかかえた岩波アカデミズム機関誌の発売日だけである。日本もフランスも共に病体であり、不安と混乱の渦中にあり、ことに若きジェネレーションはもはや伝統というヴェールに包まれた既成の観念に、疑義を抱いて、虚無に陥っている。そのような状態がフランスではエグジスタンシアリスムという一つの思想的必然をうみ、人間というものを包んでいた「伝統」的必然のヴェールをひきさくことによって、無に沈潜し、人間を醜怪と見、必然に代えるに偶然を以てし、ここに自由の極限を見るのである。サルトルの「アンティミテ」(水いらず)という小説を、私はそんなに感心しているわけでもないし、むしろドイツのケストネルが書いた「ファビアン」の方にデフォルムの新しい魅力を感ずるし、日本の実存主義運動などが、二三の反オルソドックス作家の手によって提唱されたとしたら、まことに滑稽なことになるだろうと思う。まして私たちが実存主義作家などというレッテルを貼られるとすれば、むしろ周章狼狽するか、大袈裟なことをいうな、日本では抒情詩人の荷風でもペシミズムの冷酷な作家で通るのだから、随分大袈裟だねと苦笑せざるを得ない。だいいち、日本には実
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