わなかったとは、はてさて弱い奴ばかしが、佃煮《つくだに》にするほどおったものだわい」
と、歩き方も変って来たが、しかし、帰りの道を歩いて帰るのは、いささかおっくうであつた。
一体に、武芸者が諸国を漫遊するのは、自分より強い武芸者に会うて、教えを請い、自分の腕を磨きたいという気持よりも、むしろ、天下に自分より強い者がおるかどうかを知りたい、自分より強い者がいないことを確かめて、自己満足に酔いたいという傲慢な虚栄心から、漫遊するのが常である。
してみると、佐助にとっては、既に自分より強い者はわが師白雲斎のほかになしと、わかった以上、弱い奴ばかしが一月いくらの月謝ほしさの道場を、ほそぼそと張って、それで威張りかえっているような国々を、もう一度てくてくと歩いて帰るのは、これほど退屈な話はない。
そこで、佐助は久し振りの飛行の術で一足飛びに帰ることにした。
が、どこへ帰るのか。俺に帰るところがあろうか。恋しい楓のいる信州へか。いや、アバタの穴が消えぬ限り、楓の前には、会わす顔がない。
そう考えると、佐助は憂鬱だったが、
「往きはよいよいの、中風のような武芸者が相手だが、帰りは怖い雷様を道連れとは、ても洒落た道中かな。えいと叫べば、はや五体は宙を飛んで行く。ぐんぐん登れば雷様を下に見る、不死身の強さは日本一の、猿飛佐助の道中だ」
という洒落が出て来ると、もう憂鬱はけし飛んで、得意満面の鼻歌まじりに、大空を飛んで行った。
そして、九州を過ぎ、中国筋を飛び、大坂、京の上空を過ぎて、近江の上空甲賀の山上まで飛んで来た時の佐助は、虚栄心に動かされやすい、青春客気の昂奮に、気も遠くなるくらい甘くしびれていた。
ところが、ふと眼下の甲賀山中から、一筋の妖気の立ちのぼるのを見て、
「はて面妖な!」
と、呟いた途端、
「――あッ」
たちまち飛行の術は破れて、佐助の身体は甲賀山中に墜落して行ったが、さすがに佐助は、地面すれすれの、咄嗟の宙がえりで、危く五体が木ッ葉微塵になるのをまぬがれた。
「ふーむ。わが飛行の術を破ったとは、いかなる妖魔の仕業か。わが術を破り得るほどの者、天下ひろしといえども、わが白雲斎師匠を除いて、ほかにはない筈だが、伊賀流か、甲賀流か、何れにしても手強い奴! 名を名乗れ!」
と、呶鳴りながら、起ち直ったところ、いきなり足をすくわれて尻餠つき、
「ああ、見苦しい!」
と、直ちに木遁の術……が、しかし何故か思うに任せず、金縛りにかかったようになりながら、ただ阿呆の一つ覚えのように、
「名を名乗れ! 名を名乗れ!」
と、わめいていると、いきなり、
「汝のようなたわけめに、名乗る名を持たぬわ!」
という声が、どこからか聴えて来た。
「あ、先生!」
さすがに、佐助は白雲斎師匠の声を覚えていた。
「――おなつかしゅうござります。佐助でござります」
すると、空よりの声は、
「知っておる」
「お顔を見せて下さりませ」
「たわけめ! 汝のような愚か者に、見せる顔は、持たぬわ!」
「えッ?」
「汝ははや余が教訓を忘れしか」
「えッ?」
「忍術とは……?」
と、いきなり訊かれたので、すかさず、
「忍ぶの術なり」
「忍ぶとは……?」
「如何なる困苦にも堪うる、これ能く忍ぶなり。まった、火遁水遁木遁金遁土遁の五遁を以って、五体を隠す。これまた能く忍ぶなり」
「忍術の名人とは……?」
「能く忍び、能く隠す、これ忍術の名人たり」
すらすらと答えたが、いきなり、
「汝、能く忍んだか」
と訊かれると、もう答えられなかった。
「はッ! あのウ……」
「答えられまい。汝は能く隠すも能く忍ばざる者じゃ。徒らに五遁の術の安易さに頼って、勝ち急ぐ余りの、不意討ちの卑怯の術にうつつを抜かし、試合に望んでは一太刀の太刀合わせもなさず、あまっさえ、天下一の強者を自負するばかりか、わが教えし飛行の術をも鼻歌まじりに使うとは、何たる軽佻浮薄、増長傲慢、余りの見苦しさに、汝の術を封じてやったが、向後一年間、この封を解いてはやらぬぞ。これ汝への懲罰じゃ――。さらばじゃ」
「あッ、先生!」
と叫んだが、もう師匠の声は聴えなかった。
「たった一度、お姿をお現わし下さいませ! なつかしいお顔を見せて下さりませ。先生! 先生!」
しかし、遂に白雲斎は姿を見せなかった。それは師の鞭のきびしさの故か、それとも、いつぞやの鼻血騒ぎの見苦しさを恥じて、生涯佐助に顔を見せまいと誓っていた故だろうか。
佐助は呆然として、尻餠を突いていた。
術を破られたことよりも、封じられたことよりも、増長傲慢だと、日頃の自惚れを指摘されたことが辛く、
「ああ、俺はだめだ」
と、にわかに自信をなくし、すっかり自尊心を失いながら、とぼとぼと山を降り、やがて、鈴鹿峠の麓の茶店へ腰を下す
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