の為に鼻の欠け落ちた男がいて、しかもこの男は、かなりの艶福を得たかの如く言い触らし、それが万更法螺でもなく、たしかに二三の艶福があったと、信ぜられる節があったから、随分人気が悪かった。
 ところが、佐助はこの男と違って、かつて楓と肩を並べて歩いたこともあったことなぞ、おくびにも出さず、いかにも持てませぬという顔を、城内の集りの時などに見せて、
「こんな顔ゆえ、女は諦めている」
 と、やけに聴えぬ程度に呟いて[#底本では「咳いて」と誤植]、アバタの上に笑窪《えくぼ》を泛べたりしていたので、佐助は阿諛の徒以上に好かれ、城中の女共の中には、
「あのような醜い男を殿御に持てば、浮気をされずに済みましょう」
 と、ひどく理詰めな心の寄せ方をする女もいた。
 しかし、佐助はそんな女の顔を、ひそかに楓の顔とくらべて、見向きもしなかった。そして、アバタ面のためにかえって人に好かれる自分に、驚くたびに、
「人と交るや、人しばしばその長所を喜ばず、その短所を喜ぶものと、心得べし」
 と、訓えた白雲師匠への尊敬の念を新たにしたが、しかし、佐助にひそかに恃《たの》む術がなかったとすれば、あるいはその短所のために卑屈になったかも知れず、その時は短所を喜ばれることもなかったであろうとは、果して白雲師匠は気づいたであろうか。
 ところで、佐助はあまりアバタの顔をさらけ出しすぎたので、アバタの穴から風がはいったのか、それとも下界の風に馴れなかったのか、間もなく風邪をひいて、寝こんでしまった。
 そして、ある日、三好清海入道が病気見舞いにしては、ひどくあわてこんだ恰好でやって来た。
「どうだ、病気は」
「ありがとう。今日あたり起きられそうだ。どうも下界の風という奴は、俺の性に合わぬと見える。いっそ風をくらって、逃げてやろうと思っていたが、どっこい、くらった風が無類の暴れ者、この五体中を駈けずり廻り、横紙破って出たのは、咳やら熱やら、ひどい目に会うてしまったよ。あはは……」
 と、笑うと、入道は人の善さそうな眼をパチパチさせて呆れながら、
「相変らずぺラペラとよく喋る奴だ。が、その位の元気があれば、大丈夫だ」
 そして、急に声を改めると、
「――ところで、些か変なことを訊《き》くようだが、貴公、忍術のほかには何も出来ぬのか」
「風邪をひくことも出来る。ごらんの通りよ」
 済まして言うと、入道はあわてて手を振って、
「いや、そう茶化しては困る。えーと、例えばだ、歌を読むとか、作るとか、そういうことは出来るのか」
 すると、佐助は急に床の上に坐り込んで、
「何? もう一ぺん言ってみろ。出来ぬのかとは、何事だ。人生百般――と、敢えて大きく出ぬまでも、凡そ人間の成すべきことにして、不正、不義、傲慢のこの三つを除いたありとあらゆる中で、この佐助に能わぬことが、耳かきですくう程もあれば言ってみろ!」
「まア、そう怒るな。じゃ、出来るのか」
「憚りながら、猿飛佐助、十八歳の大晦日より二十四歳の秋まで、鳥居峠に籠っていた凡そ六年の間、万葉はもとより、古今、後撰、拾遺《しゅうい》の三代集に、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の五つを加えて、世にいう八代集をはじめ、源実朝卿の金|槐《かい》集、西行坊主の山家集、まった吉野朝三代の新葉集にいたるまで、凡そ歌の書《ふみ》にして、ひもどかざるは一つも無かったのみか、徒然なるままに、かつは読み、かつは作ってみた歌の数は、ざっと数えてこのアバタの数ほどあるわい」
「判った、判った。道理で日頃の貴公の言葉づかいが、些か常人とは異っていると思っていたよ。ところで、そうときまれば、好都合だ。というのは、外でもない、実は今夜城中に奥方の歌の会があるんだが、今夜の会には、ちと俺の気にくわぬ趣向がたくらまれているんだ」
「ほう? 下手糞な歌を作った罰に、三好清海入道に、裸おどりでもさせようという、趣向か。こりゃ面白い」
「莫迦をいえ。実は、一番いい歌を作った女を、一番いい歌を作った男にくれてやろうという、趣向なんだ。ところが、女の中で一番歌の巧いのは、奥方附きの侍女で、楓という女なんだ」
「楓……? きいたような名だな」
 ふと甘い想いが佐助の心をゆすぶった。が、入道はそんなことには気づかず、
「ところで、男の方の歌の巧い奴は、家老の伜の伊勢崎五六三郎だ」
「すると、何だな。その五六三郎が、楓とやらを、貰いそうなんだな。それがどうして、気に染まぬのだ。貴公、その楓とやらに、思いを寄せておるのか」
「あらぬことを口走るな。俺ア毛虫の次に嫌いなのは、女という動物だ。つまり、今夜の歌の会で俺の気にくわぬ理由が、ざっと数えて三つある。一つは、五六三郎という奴が虫が好かんのだ」
「向うでも、貴公を好きとは言っておらんだろう」
「そうだ、そうだ」
 と、三好はからかわ
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