と、
「お茶を一杯下さい」
 ひどく心細い声で言った。
「お侍様は、この峠をお越しになられるのですか」
 その声を掛けた茶店の女の顔は、一寸美しかった。
 美しい女にアバタ面を見られるのは辛い。いつもの佐助なら、直ちに忍術で姿を消したところだが、術は封じられている。
 それを悲しみながら、しかし佐助はさすがに気取った口調を忘れず、
「来し(越し)は夢の夢の夢のまた夢、昨日は今日のはつ昔、旅の衣は鈴鹿の峠を越す(乾す)も乾さぬも、雨次第じゃが、どうやら、今宵は降りそうじゃな」
 と、しんみりした声で言うと、茶店の女は、
「お侍様、そりゃおよしなさいませ。あの峠には、木鼠胴六といって、名高い石川五右衛門の一の子分が山賊となって、山塞にとじこもり、旅人を見れば、剥ぎ取って、殺してしまいます」
「何ッ! 山賊が……?」
 佐助の眼は急に生々と輝いた。
「――こりゃ面白い。雨でも越さずばなるまい」
「まア、命知らずな。悪いことは申しませんから、およしなさいませ。昨日も坊様かお侍様かわからぬような、けったいな方が、俺が退治て来てやると言って、山の中へはいって行かれましたが、今に降りて見えぬところを見ると……」
「あはは……。退治られたと申すか。いや、この俺は、そんな坊主か侍かわからぬような、宝蔵院くずれとは、些か訳がちがう。忍術は封じられても、猿飛佐助、石川五右衛門の子分共に退治られるような、弱虫ではないわ。――おや、何をそのようにそれがしの顔を見ておるのじゃ。そのように穴のあくほど見つめずとも、既にアバタの穴があいているわい。あはは……」
 笑いやむと、佐助は武者ぶるいしながら峠道を登って行った。
 やがてノッポの大股は山賊の山塞に近づくと、佐助は、
「遠からん者は音にも聴け、近くば寄って眼にも見よ、見ればアバタの旗印、顔一面にひるがえる、信州にかくれもなきアバタ男、猿飛佐助とは俺のことだ。鈴鹿峠の山賊共! いざ尋常に……」[#底本では「かぎかっこ」が欠落]と、例によって、奇妙な名乗りをあげながら、木鼠胴六の山塞へ、樊※《はんかい》[#「※」は「口へん+會」、第3水準1−15−25、221−15][#底本では「はんか」とルビ]の如き恰好で乱入して行った。

   木遁巻

 嘘八百と出鱈目仙人で狐狸《こり》固めた信州|新手《にいて》村はおろか信州一円に隠れもなきアバタ男、形容
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