ければならず、濡れた傘のじっとりした手ざわりがたまらなかった。
冬がいちばん辛かった。手足の先がチリチリ痛むのだった。客がはいって来るたびに、さっと吹きこんで来る冷たい風だ。客は戸をしめるのを忘れた。いちいちそれを閉めに立った。その都度、鼻の先がチカチカ痛みをもった。
矢張り悲しかった。
けれど、他吉は夜おそく身をこごめて日の丸湯の暖簾をくぐる時、自身で草履をしまい、ろくろく君枝の顔をよう見なんだ。
君枝が渡す下足札を押しいただいて受けとり、その手は血の色もなく静脈が盛り上って、かさかさと土のようで、子供心に君枝は胸が痛み、ひとびとが言うほど自分が祖父から辛く扱われているとは、思えなんだ。
むしろ、このように働くのを自分の運命だと、君枝はなにか諦めていたようだったが、けれどただひとつ、昼間客のすくない時の退屈さは、なんとも覚えのない悲しさで、ガラス戸越しに表通りを見るともなく見て、無気力な欠伸をはきだしていると、泣きたくなった。
そうして、いつかしくしく泣きながら居眠ってしまうのだが、そんな時いつも起してくれるのは、ガラス戸の隙間にシュッと投げ込まれる夕刊の音だった。
「あ、次郎ぼん!」
外は寒かったが、表へ出て見ると、風が走り、次郎の姿はもう町角から消えていて、犬の鳴声が夕闇のなかにきこえた。
しかし、次郎はもう犬をこわがる歳でもなく、間もなく夕刊配達をよして、東京へ奉公に行った。
9
十姉妹が流行して、猫も杓子も十姉妹を飼うた。榎路地の歯ブラシの軸の職人は、逃げた十姉妹を追うて、けつまずいて、足を折り、一生跛になった。〆団治は二羽飼うて、すぐ死なし、二円五十銭の損であった。が、儲けた人も随分多く、谷町九丁目のメタル細工屋の丁稚は、純白の十姉妹を捕えて、一財産つくり、大島の対を着て、丹波へ帰って行ったと、大変な評判であった。
ある日、他吉が口繩坂の上を空の俥をひいて、通りかかると、坂の下から、
「十姉妹や」
「十姉妹や」
声をかさねて、ひとびとがまるでかさなりあいながら、駈けのぼって来た。
「――阿呆な奴らや。なにを大騒ぎさらしてけつかる」
他吉は綿を千切って捨てるように、呟いたが、途端に、他吉のふところへ、追われた十姉妹が飛び込んで来た。
真っ白だ。
咄嗟に手を伸ばしたが、十姉妹はすっと飛び去った。
「しもた!」
他吉は叫んで、俥をおっぽり出して、推寺町から大江神社の境内まで追うたが、ふところに君枝に買うてやった空気草履がはいっているのに気をとられて思うように走れず、到頭逃がしてしまった。
そして、もとの場所へ戻って来ると、俥が見えない。他吉は蒼くなった。
その夜、他吉は日の丸湯へ来なかった。朝出しなに、
「今日は空気草履買うて来たるぜ。日の丸湯へもって行ったるさかい、待ってや」
と、言った祖父の言葉をあてにして、君枝はいま来るか、いま来るかと日の丸湯の下足場でちいさな首をながくしていたが、来ず、空しく十二時をきいた。
「お祖父やんのけちんぼ」
君枝は給料のほか盆正月の祝儀など、収入《みい》りの金は一銭も手をつけず、そっくりそのまま他吉に渡していたが、他吉は黙って受けとり、腹巻きに入れてしまうと、そのうちの一銭、二銭を、玉焼きでも買いイなと出してくれた例しもなく他のことは知らず、金のことになるとまるで人が変ったようになる日頃の他吉の気性を子供心に知っていたから、日の丸湯の暖簾を入れて飛んで帰ると、思わずそんな言葉が出た。
「――嘘ついたら、エンマはんに舌抜かれるし」
そして、上ると、他吉はもう蒲団をかぶって寝ていて、枕元にコンニャクの形の空気草履が並べて置いてあった。
それでは、お祖父やんはびっくりさせようと思って、わざと日の丸湯へ来ず、枕元に置いて、自分は寝た振りしているのだろうと、君枝は思って、こっそり空気草履を足にひっかけ、部屋の中をあるきながら、
「ああ、良え音するわ、ペタ、ペタ、ペタ、ペタ、この音寝てる人に聴えへんのやろか」
遠まわしに他吉を起すと他吉は、
「聴えることは聴えるけどな……」
精の抜けた寝がえりを打って、しょんぼりした顔をふわーっと、蒲団からだした。そして、言うことには、
「――君枝お前は感心な奴ちゃな。文句もいわんと毎日よう動《いの》いてくれる。それやのに、わいはなんちゅうど阿呆[#「ど阿呆」に傍点]やろ。ほんまに子供のお前に恥かしいわ」
「お祖父やん、どないかしたんか。草履買うて釣もらうのん忘れたんか」
「それどころの騒ぎやあるかい」
他吉は大人に物言うような口調になり、
「――阿呆の細工に、十姉妹追いかけてる隙に、俥盗られてしもてん。えらいことになってしもた。明日から商売でけん」
だから、日の丸湯へ顔出しする元気もなく、こうやって蒲団かぶって寝ていたのだと、ぶつぶつ言うと、君枝はぺたりと尻餅ついて、ああ、えらいことになってしもたと、子供心にこたえたようだった。
俥がなくては商売が出来ず、まる二日は魂が抜けたようになって、あちこち探しまわったり、
「ああ、もう焼糞や。焼の勘八、日焼けの茄子や」
と言いながら、畳の上に仰向けになってごろんごろんしていた。
が、三日目の黄昏前、君枝がさすがに浮かぬ顔をして下足の番をしていると、
[#ここから2字下げ、底本では一行目は1字下げ]
「えーうどんの玉ア
あつあつのお玉ちゃん
白い着物《べべ》きて朝から晩まで湯にはいり
つるつるの肌した
別嬪ちゃんのお玉ちゃん
十オあって五銭」
[#ここで字下げ終わり]
と触れ歩いている声がきこえ、よく聴くと他吉の声だった。
もう腰の曲る歳で、荷が重いらしく、声もしわがれていた。
「まいどおおけに」
下足を渡して、客の出たあとより飛んで出ると、他吉はにこにこしながら、
「どや似合うか」
「よう似合《にお》てるわ」
君枝の声に合わせて、種吉も天婦羅あげながら、
「他あやん、おまはんその方がよう似合てるぜ。声もわるないな」
「そやろか」
他吉は嬉しそうに言って、
「――種さん、人間はお前、どないでもして食べて行けるもんやな。人間はへこたれたらあかんぜ」
これは半分君枝にもきかせ、そして、天びんを左肩へ置きかえると、
「えーうどんの玉ア……」
やがて、声も姿もちいさくなった。
風に吹かれて佇み、見送っていると、向うから東西屋が来て、河童路地の入口で停った。
そして、口上を述べだすと、種吉は路地の奥へ飛んで行き、直ぐお辰と一緒に出て来た。
柳吉と蝶子が高津神社坂下に間口一間、奥行三間半のちっぽけな店を借りうけてはじめた剃刀店の売り出しの東西屋らしいと、きいて君枝にもおぼろげに判った。
「ひとつうちのお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]の天婦羅の店の前で、景気ようやっとくれやす」
蝶子は東西屋に言ったのであろう、東西屋は今朝蝶子たちの店の前でやったのと同じくらい念入りに賑やかに口上を述べた。
朝日軒の敬吉が出て来て、
「種さん、おまはんもこいで一安心やな」
と、言うと、
「さいな。売れてくれると宜しおまっけど、さて開いて見たら、耳かきぐらいしか売れへんのとちがいまっか」
種吉はちょっと照れた。お辰はすかさず、
「敬さん、剃刀でもシャンプーでも用あったら、注文したっとくなはれや」
と、言った。
東西屋が天婦羅をふるまって貰って、行ってしまうと、にわかに黄昏れて来た。
日の丸湯へ戻り、ふと女湯の障子にはめられた赤、紫、黄、青の色硝子に湯槽の湯がゆらゆらと映って、霞んでいるのを、いつもとちがうしみじみとした美しさだと見上げていると、
「上り湯ぬるおまっせ」
羅宇しかえ屋のお内儀の声がし、暫らくすると、季節はずれの大正琴の音がきこえて来た。曲は数え歌の「一つとや」
朝日軒の義枝は去年なくなり、弾いているのは末の娘の持子で、二十二歳、もちろん姉たちと一緒に独身で、すぐ上の兄の敬助は郵船会社へ勤めているが毎日牛乳を三合のみ、肺がわるかった。
[#改頁]
第三章 昭和
1
十年が経った。
君枝は二十歳、女の器量は子供の時には判らぬものだといわれるくらいの器量よしになっていた。
マニラへ行く前から黒かったという他吉の孫娘とは思えぬほど色も白く、
「あれで手に霜焼けひび赤ぎれさえ無かったら申し分ないのやが……」
と言われ、なお愛嬌もよく、下足番をして貰うよりは番台に坐ってほしいと日の丸湯の亭主が言いだしたので、他吉はなにか狼狽して、折角だがと暇をとらせた。
そうして、寺田町のナミオ商会という電話機消毒婦の派出会へ雇われてみると、日の丸湯で貰っていた給料がどんなに尠なかったかがはじめて判った。
あれほど銭勘定のやかましかった他吉が、ついぞこれまでそのことを口にしなかったのは、まるで嘘のようであったが、君枝もまた余程うかつで、ただ他吉のいいなりに、只同然の給料で十年黙々と下足番をして来たのだった。
つまりは、ベンゲット道路の工事は日給の一ペソ二十五セントだけを考えていては、到底やりとげる事は出来なかったという他吉の口癖が、いつか君枝の皮膚にしみついていたのだろうか。
ベンゲットで砂を噛み、血を吐くくらいの苦しみを苦しんだ、どんな辛さにもへこたれなかった、そして最後まで工事をやり遂げたという想いだけが、他吉の胸にぶら下るただひとつの勲章だと、君枝にもわかっていた。
「文句を言わずに、ただもうせえだい働いたら良えのや。人間は働くために生れて来たのや。らく[#「らく」に傍点]をしよ思たらあかんぜ」
この日頃の他吉の言葉は、だから、理屈ではなかっただけに、一そう君枝の腑に落ちていたのだった。
無智な他吉は、理屈がうまく言えず、ただもう蝸牛《かたつむり》の触角のように本能的な智慧を動かして、君枝を育てて来たのだが、それで、それなりに、君枝は一筋の道を歩かされて来たとでもいうべきだろうか。
それにしても、たしかに日の丸湯の給料はやすかった。
ナミオ商会では、見習期間の給料が手弁当の二十五円で、二月経つと三十円であった。なお、年二回の昇給のほかに賞与もあり、さらに主任の話によれば、
「なんし、広い大阪やさかい、電話をもってながら、申込んでさえ置けば、ちゃんと消毒婦を派遣してくれるちゅううちのような便利なもんのあるのを、知らん家がある。そういう家へはいって、契約の勧誘をどしどし取ってくれれば、成績によっては、特別手当もだすさかいな、気張って契約とっとくなはれや」
十年前といまでは金の値打ちがちがうとはいえ、しかし、尋常を出ただけにしては、随分良い待遇だと君枝はびっくりしたが、その代り下足番の時とちがって、仕事はらくではなかった。
朝八時にいったん商会へ顔を出して、その日の訪問表と消毒液をうけとる。
それから電話機の掃除に廻るのだが、集金のほかに、電話のありそうな家をにらんではいって、月一円五十銭で三回の掃除と消毒液の補充をすることになっている。なんでもないもののようだが、電話機ほど不潔になりやすいものはないと呑み込ませて、契約もとらねばならず、「おいでやす」と「まいどおおけに」だけでこと足りた下足番に比べて、気苦労が大変だった。
年頃ゆえの恥かしさは勿論だが、それに彼女は美貌だった。
消毒を済ませ、しるしの認印をもらって、消毒機をこそこそ風呂敷包みのなかにしまって出て行く時、
「おやかまっさんでした」
という声の出ないほど、顔から火を吹きだし、腹の立つこともあった。
おまけに、大阪の端から端まで、下駄というものはこんなにちびるものかと呆れるくらい、一日じゅうせかせかと歩きまわるので、からだがくたくたに疲れるのだ。
北浜の株屋を後場が引けてから一軒々々まわって、おびただしい数の電話を消毒したあとなど、手がしびれた。
「ああ、辛度《しんど》オ」
思わず溜息が出て、日傘をついて、ふと片影の道に佇む、――しかし、そんな時、君枝をはげますのは、
「人間はからだを責めて働かな嘘や」
前へ
次へ
全20ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング