という例の他吉の言葉、いや、げんに偶然町で出会う他吉の姿であった。
 一時はうどんの玉を売り歩いていたが、朋輩のすぐいちの増造[#「すぐいちの増造」に傍点]に貸した金の抵当《かた》にとってあった人力車が流れ込んで来たので、他吉は再びそれをひいて出た。が、間もなく円タクの流行だ。圧されて商売にならず、町医院に雇われたがれいの変な上着を脱ごうとしないのがけしからぬとすぐ暇をだされて、百貨店の雑役夫もしてみた。
 ところが、今日この頃は、ガソリンの統制で、人力車を利用する客もふえて来たのを倖い、
「世の中てほんまにうまいことしたアる」
 と、喜んで、また俥をひいて出ていたのだった。
「お祖父ちゃんももうええ歳や、ええ加減に隠居しなはれ。だいいち、もう坂路をひいたりするのが辛いやろ?」
 と、停めても、
「阿呆いえ、坂路もありゃこそ、俥に乗ってくれる人もあんのやぜ。ぶらぶら遊んだら、骨が肉ばなれてしまう」
 と、きかず、よちよち「ベンゲットの苦労を想えば、こんなもんすかみたいなもんや」という想いを走らせている他吉の気持は、君枝にはうなずけたが、しかし、その姿を見れば、やはりチクチク胸が痛み、眼があつく、
「――私《うち》に甲斐性がないさかいお祖父ちゃんも働かんならんのや」
 と、この想いの方が強く来て、君枝は思いがけず金銭のことに無関心で居れず欲が出た。
 けれど、たとえば、電話機の消毒に廻る水商売の家でいわれる――
「あんたの器量なら、何もこんなことをせんでも、ほかにもっと金のとれる仕事がおまっしゃろ」
 という誘いには、さすがに君枝は乗る気はせず、やはり消毒液の勧誘の成績をあげて、特別手当をいくらかでも余計に貰うよりほかはないと、白粉つけぬ顔に汗を流して、あと一里の道に日が暮れても、せっせと歩くのだった。
 半年ほど勤めたある朝、主任が、
「今日は忘れんように、萩の茶屋の大西いう質屋へ廻ってんか」
 と、言った。
「あそこは五日ほど前廻ったばっかしでっけど……」
 用事は電話機の消毒でも、さすがに質屋の暖簾をくぐるのは恥かしいという気持ばかりでもなく、そう言うと、
「そら判ってる。五日まえに行ったことは判ってる」
 主任はなにかにやついて、
「――とにかく行ったってんか」
 変だなと君枝は思ったが、
「卓上(電話)でも引きはったんでっしゃろか」
 と、いいつけ通り、とにかく行くことにした。
「じゃあ、これ持って行きなはれ」
 主任はめずらしく、市電の回数券を二枚ちぎってくれた。
 動物園前で市電を降り、食物屋や[#底本では「食物屋が」と誤記]雑貨屋がごちゃごちゃと並んだ繁華な大門通りを抜けて、大門の近くで右へ折れると、南海電車の萩の茶屋の停留所の手前に、
「ヒチ、大西」
 と青い暖簾がかかっていた。
 入口でちょっとためらい、ちらとそのあたりを見廻してから、
「今日は」
 と、はいって行くと、
「おいでやす」
 文楽人形のちゃり頭《かしら》のような顔をして格子のうしろに坐っていた丁稚《でっち》が、君枝の顔を見るなり、
「電話のお方が来やはりましたぜエ」
 奥へ向って、大声をだした。
 瞬間奥の部屋でなにかさっと動揺があった――と、君枝は思った。
「秀どん、なに大きな声だしたはるねん。阿呆やな」
 言いながら、いつもは奥の長火鉢の前で、頭痛膏をこめかみにはりつけた蒼い顔で、置物のようにぺたりと坐りこんでいる御寮人が、思いがけずいそいそと出て来て、
「――よう来てくれはりました。さあ、どうぞ。どうぞあがっとくれやす」
 手をとらんばかりに愛想が良く、眉間の皺もなかった。
 君枝は気味がわるかった。
「ほな、お邪魔します」
 ちいさなモスの風呂敷包みをひらいて、消毒器のなかにはいった脱脂綿をとって、器用な手つきで電話機を消毒し、消毒液入れに消毒液を入れていると、いくつかの眼がじろじろと背中に、顔に、動作に来たようだった。
「あんたもお若いのに、たいてやおまへんな」
 御寮人は傍をはなれずに、しきりに話しかけた。
「はあ、いいえ」
 曖昧に返辞していると、
「このお仕事の前は、なにしたはりましたんでっか。――ずっとお家に……?」
「近所の風呂屋で下足番してました」
 ありていに答えた。
「下足番?……」
 御寮人はちょっと唸ったようだが、
「――それで、御家族は?」
 と、訊いた。
 なぜ、こんなことを訊くのかと、不審というより腹が立ち、
「お祖父さんと二人です」
「まあ、そうでっか。そら寂しおまんな。ほいでお祖父さんはいま何したはるんです?」
「俥ひきしてます」
 君枝はむっとした表情をかくすのに苦労が要った。
「そうでっか? それはそれは……。御両親は早くなくなられはったんでっか?」
「はあ」
「ずっと以前にね? そうでっか。それはそれは……。そいで、お父さんは……?」
 何をしていたのかと、御寮人は執拗かった。
「玉造で桶屋してましたけど、失敗してマニラへ行って、死にました」
 君枝はしみじみした口調だったが、顔はそんなに執拗い御寮人へ怒っていた。
「――御認印を」
 そこを出しなに、若い男の真赤な眼が、上眼を使ってこちらをみつめたように、君枝は思った。
 あちこち消毒や勧誘にまわって、寺田町に帰って来ると、
「御苦労やった。どやった、質屋のぐあいは……?」
 主任が言った。主任の顔は口髭を落して以来いつみても卵子のようにのっぺりしていた。
「……?……」
 何故そんなことを言いだすのか、訳がわからなかった。
「息子が居たやろ?」
「……さあ?」
「さあとはえらいまた頼りない返辞やな」
 笑って、ぽんと君枝の肩を敲き、
「――いまに君に運が向いて来るかも判れへんぜ。けっ、けっ、けっ……」
 主任は抜けた歯の間から、けったいな笑いをこぼした。
 君枝はますます訳がわからなかったが、帰り途、朋輩の春井元子の口からきいて、はじめて、主任が自分に大西質店へ行けと言った意味などが腑に落ちた。
「昨日あんたの留守中に、あそこの御寮人が事務所へ来やはったんよ。うち運よく帰ってたさかい傍できいてたらね……」
「……御寮人の言うのには、――藪から棒にこんな話をするのは何だけれど、実はお宅に勤めていらっしゃる方で、色の白い、小柄な、愛嬌のある、……ああ、佐渡島君枝さんとおっしゃるのですか、……ところでその君枝さんのことですが、ざっくばらんに申せば、うちの倅《せがれ》がお恥かしいことに君枝さんに、……なんといってよいやら、……とにかく、まあ見染めたというのでしょうか……」
「……しとやかで、如何にも娘さんらしゅうて、そのくせ、働いてる動作がきびきびして、とても気持がええ――贅らなあかへんし、――そこを息子さんが見染めたと言やはるのんよ……」
 ……もう、あの娘さん以外の女と結婚するのはいやだと、倅はひとり息子で甘やかして育てているだけに、言いだしたらあとへ引かない、実は母親の自分としても、父親はなし、ほかに子供もなし、早く嫁を貰いたいとひそかに物色中である。ついては、何も倅の言いなりに君枝さんを……というわけでもないが、また、今すぐどうのこうのと思っているわけでもないが、しかし、一応倅の意見も尊重――といってはおかしいが、とにかく倅の思っている娘さんがどんなひとであるか、母親の責任としても知って置きたいという気持、……これは判っていただけると思うが、それについて、お頼みというのは、実は君枝さんの印象は一二度消毒に来られたから知っているものの、なんといってもおぼろげであるから、一度明日にでもうちへ寄越して貰えないか、――いえ、なに試験だとか、見合いだとか、そんな改まった大袈裟なものじゃなく、ほんのただ、いつものように働いていられる姿をちょっと見たいだけ、だから、君枝さんにはこのことは今のところ内密にしていただきたい云々。
「……そこで、あんたが今日わざわざ派遣されたいうわけやねん」
 寺田町から天王寺西門前まで並んで歩きながら、元子はひとりで喋った。
「そうオ?」
 自分の知らぬ間にそんな話が起っていたのかと、君枝はどきんと胸騒いで、二十歳という年齢が改めてくすぐったく想いだされたが、あまい気持はなかった。
 むしろ、なにか欺された気持が強かった。質屋の御寮人から執拗くいろんなことを問い訊されたことも、いやな気持で想い出された。
「そいで、行ってみて、どやったの?」
 元子は主任と同じようなことを訊いた。
「――どんな息子さんだったの?」
「さあ……?」
 母親に似て変に蒼い顔をした若い男が、長火鉢の前で新聞をあっちこっちひっくりかえしながら、そわそわうかがうようにこっちを見ていたことだけ、記憶しているが、それも随分漠然とした印象だったから、
「――どんな人か知らん。うちなんにも考えてへんかったもの」
 さすがに赧くなりながら、わりに正直に答えると元子は肱で君枝を突いた。
「あんた頼りないお子やなあ。敵の陣地へ飛び込んで、ぼやぼやしてたら、あかへんし。もっとしっかりしイぜ」
 自分だったら、すくなくとも、主任から行けと言われた時にぴんと来て、どんな学校を出た男か、教養があるかないか、ネクタイのこのみがどうかまで、一眼でちゃんと見届けてやるんだと、二十五歳の元子は、分厚い唇をとがらし、元子は実科女学校へ二年まで行ったのが自慢の、どちらかといえば醜い女であった。
 喫茶店の前まで来ると、
「あんた、ちょっと珈琲のんで行けへん? 今日は奢ってもらわな損や」
 元子が言い、さきに立ってはいった。
 君枝はちらっと他吉の顔を想い泛べたが、贅沢といっても、月に一度だからと珈琲二杯分三十銭の散財を決心して、随いてはいった。
 向い合って、腰を掛けると、元子は喋り続けた。
「ほんまに奢ってもらうし。――というのはな、今日あんたがあの質屋へ行ってちょっとしてから、主任さんとこイ御寮人さんから電話が掛って来たそうやねん」
「ふーん」
「頼りない返辞やな。聴いてんのんか、あんた。よう聴きぜや。その電話いうのがね――今日はわざわざ寄越していただいて、ありがとう、いずれお礼かたがた挨拶に伺うけど、ほんまに思った以上の良い娘さんで、すっかり感心したちゅうて、掛って来たんやし」
「嘘ばっかし」
「そない照れんかてええやないの。ああ、あんたはええな。質屋いうたら、あんた、お金が無かったら、でけん商売やろ? もうじきあんたはお金持ちの奥さんや。ええなあ。うち、入れに行ったら、沢山《ぎょうさん》貸してや。いまから頼んどくし」
 そこで元子は声をひそめ、
「――ここでの話やけどな、うちの恋人新聞記者やけど、月給四十円しか貰《もろ》てへんねん。情けない話や。うちあんたの知ってるように月一円五十銭の回覧雑誌とってるやろ。それ貸したげたらね、うちの恋人なんぼ言うても、平気な顔してかえしてくれへんね。ほかの雑誌ともうじき交換せんならんのに、困ってんのに、かえしてくれへんとこ見たら、どうやら、古本屋へ売ってしもたんとちがうやろか思て、うちもう腹が立つやら、情けないやら……そこイ行くと、あんたはほんまにええな。ええとこから貰い手があるし、……」
 君枝はそんな元子の愚痴がおかしくてならなかった。
 かつて君枝は結婚のことなど想ってみたことがなく、げんにそういう話が自分に起っていることも、実感として来ないのだ。
 自分ももうそんな年頃かと、ふと心の姿勢がかたくなることはなるのだが、しかし、自分が嫁入ってしまえば、あとに残った祖父はどうなるかと、この想いが強く、それでなにもかも打ち消されてしまうのだ。
 それに、彼女の周囲には、朝日軒の娘たちがいる。
 文字通り、彼女には縁遠い話だった。
「ちっともええことあれへんわ」
 君枝は味もそっけも無さそうに言った。
「なんぜやのん?」
「うち、お嫁入りみたいなもんせえへん」
 そういう君枝の気持は元子には判らなかった。
「へえ? そらまたなんぞやのん? 気に入らへんの? あそこの息子さん感じわるいのん?」
 ひとりで決めて、
「――そう言えば、そ
前へ 次へ
全20ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング