うやなあ。お嫁さんを選ぶのは男の権利やろけど、しかし呼びつけて、こっそり試験したり、観察したりするのん、ちょっと厚かましいな。あんたが好んでそうするのんやったらともかく、何も知らんあんたを、勝手にお嫁さんの候補に見立てて、試験したりするのん、考えてみたら、ちょっといややな。あんたが感じわるい思うのん無理ないなあ」
 十五銭ずつ出し合って、勘定をはらい、喫茶店を出ると、もう暗かった。
 元子と別れて、市電に乗ると、もう君枝はそのことを忘れてしまい、他吉にもそんな話のあったことを話さなかったが、翌日君枝はいやでもそのことを想いださねばならなかった。主任がまた言いだしたからである。
「今日は五時までに帰って来てんか?」
「はあ……?」
「大西さんが親子でいっぺんあんたと御飯をたべたい言うのでな。わしも一緒に行くさかいな」
「でも、そんなこと……。お祖父ちゃんが……」
「お祖父さんにはあとでまた話しするから」
 きいて、君枝はぐっと怒りがこみ上げて来た。
「――俥夫やと思って、莫迦にしてる。うちのお祖父ちゃんは、そんなひとに莫迦にされたりする人とちがう。それに、うちは長女や。嫁に行けるからだとちがう。それを知ってて、勝手にそんな話を決めてしまうのは、長屋の娘や思て、あなどってるのやろ。うちはあなどられても構《かめ》へんけど、お祖父ちゃんが可哀想や」
 そう思い、君枝は自身の奥歯のきりきり鳴る音をきいた。
 君枝はその日、事務所へ帰らなかった。
 翌日、休んで職を探してあるいた。
 夜、帰って来ると、速達が来ていた。
 明日出社されたしと短かく書いてあった。
 朝、行き、やめる旨言い、日割勘定で手当を貰い、その足で職業紹介所へ出掛けた。

     2

 間もなく、君枝はタクシーの案内嬢に雇われた。
 難波駅の駐車場へ出張して、雨の日も傘さして、ここでも一日立ちずくめの仕事で、雇われてみると、やはりベンゲットの他あやんの娘らしい職場だった。
 暫らくすると、タクシーの合乗制度が出来た。
 誰が考えついたのか、同一方面の客を割前勘定で一ツ車に詰めこめば、ガソリンが節約でき、客も順番を待つ時間がすくなく、賃金も安くつくという、いかにも大阪らしい実用的な思いつきだった。
 君枝はその方の案内に、混雑時など、
「△△方面へお越しの方はございませんか」
 と、ひっきりなしに叫び、声も疲れた。
 馴れぬ客はまごつき、運転手も余り歓迎せぬ制度ゆえ、案内嬢は余程の苦労が要る。親切・丁寧・敏速でなくてはいけぬと、監督は口癖だった。
 しかし、君枝は、そんなにまで勤めなくともと監督が言うくらい、熱心で、愛嬌もあり、客の捌きも申し分なく、親切週間に市内版の新聞記者が写真と感想をとりに来て、美貌のせいもあり、たちまち難波駅の人気者になった。
 小柄の一徳か、動作も敏捷で、声も必要以上にきんきんと高く、だから客たちは、ほう綺麗だなと思っても、うっかり冗談を言いかける隙がなかった。
 自分でも、難波駅の構内から吐きだされて来る客を、一列に並ばせて、つぎつぎと捌いて行く気持は、なんとも言えず快いと思った。
 けれど、何千という数の客を捌き終って、交替時間が来て、日が暮れ、扉を閉めた途端にすっとすべりだして行く最後の車の爆音を聴きながら、ほっと息ついて靴下止めを緊めなおしていると、ふと、
「お祖父《じ》やんは人力車アで、孫は自動車《えんたく》の案内とは、こらまたえらい凝って考えたもんやなあ」
 と口軽に言った〆団治の言葉が想いだされて、機械で走る自動車と違って、人力車はからだ全体でひかねばならぬ――と、祖父の苦労を想ってにわかに心が曇った。
 そんな君枝の心は、しかし他吉は与り知らず、七月九日の生国魂《いくたま》[#ルビはママ]神社の夏祭には、天婦羅屋の種吉といっしょに、お渡御《わたり》の人足に雇われて行くのである。
 重い鎧を着ると、三十銭上りの二円五十銭の日当だ。
「お祖父ちゃん、もう今年は良え加減に、鎧みたいなもん着るのん止めときなはれ。うち拝むさかい、あんな暑くるしいもん着んといて……」
 君枝は半泣きで止めるのだったが、他吉はきかず、
「阿呆らしい、ひとを年寄り扱いにしくさって……。去年着られたもんが、今年着られんことがあるかい。暑い言うたかて、大阪の夏はお前マニラの冬や」
「そんなこと言うたかて、歳は歳や。羅宇しかえ屋のおっさんかて、こないだ流してる最中にひっくりかえりはったやないか。お祖父《じ》やんにもしものことあったら、どないすんのん?」
「げんのわるいこと言いな。あんな棺桶に半分足突っ込んだおっさんと同じようにせんといて……。生国魂はんのお渡御《わたり》の中にはいるもんが、斃れたりするかいな、ちゃんと生国魂はんがついてくれたはる――ああ、今年もベンゲットの他あやんが来とるなあ言うて、守ってくれはるわいな」
 心配しな、心配しなと、矢張り他吉は鎧の方に廻るのだった。
 丁度その日は君枝の公休日だった。
 よりによってそんな日にぶらぶらしていることが、君枝はなにか済まぬ気がして、枕太鼓や獅子舞いの音がきこえても、お渡御《わたり》を見る気もせず、夜他吉が帰ってから食べられるように、冷やしそうめんをこしらえて、井戸水の中に浸けたあと、生国魂神社へお詣りすると、足は自然下寺町の坂を降りて、千日前の電気写真館の方へ向いた。
 もとあった変装写真や歌舞伎役者の写真がすっかり姿を消して、出征の記念写真が目立って多くなっているなかに、どうした奇蹟であろうか、二十年前のマラソン競争の記念写真が、色あせたまま、三枚一円八十銭の見本だと、値だけ高くなって陳列されているのを見ると、気が遠くなるほどなつかしかった。
 ――大阪の夏はお前マニラの冬やと祖父が言ったところを見ると、マニラは余程暑いところであろう。そういうところで死んだ父親にふさわしく、ランニングシャツ一枚の裸かでニコニコ笑いながら、優勝旗を持って立っている父親の黄色く色あせた顔を、まるで陳列ガラスを舐めんばかりにして、みつめていると、不意に、
「お君ちゃん――と違いますか」
 声をかけられた。
 振り向いて、暫らく顔をみつめてから、
「あ。次郎ぼん!」
 九年前、東京へ奉公に行き、それから二年のちにたったひとりの肉親の父親が蝙蝠傘の骨を修繕している最中に卒中をおこして死んだ報せで、河童路地へ帰って来た時、会うたきり、もう三十そこそこになっている筈だとすばやく勘定した拍子に、君枝はそんな歳の彼を次郎ぼんという称び方したことに想い当り、はっと赧くなっていると、次郎は、
「やっぱり君ちゃんやった。いや、なに、この写真を見たはるんでね、そうじゃないかと思ったんや」
 大阪弁と東京弁をごっちゃに使って言い、
「――〆さんに連れられて、この写真いっしょに見たのは、あれはもう十年も前でんなあ。――お君ちゃんはいつもこれ見に来るの?」
「ええ。もう十日にあげず……」
 暑さのせいばかりではなく、汗が全身を絞った。次郎は背も高く、肩幅も広く、顔だちもきりりとしていた。濃い眉が日焼けした顔によく似合っていた。
 その眉をすこし動かせて、次郎はふっと笑い、
「しかし、それやったら、写真館《ここ》の親爺さんにそう言って、譲って貰えば良いのに……。案外遠慮深いんだなあ、お君ちゃんは……」
 と、言った。
「そんでも、なんや厚かましゅうて……」
「そんなら僕がそう言って、貰ってあげましょうか。ちょっと待って下さい。どこイも行かんと……。行ってしもたら、駄目ですよ」
 次郎はそう言うと、二段ずつ階段を上って行った。
 君枝は暑さを忘れた。
 暫らくすると、半ズボンの写真館の男といっしょに、降りて来た。
「これです」
 次郎が陳列窓の写真を太短い手で指すと、
「これでっか。こら、あんた、骨董物でっせ」
 写真館の男は言ったが、
「――しかし、まあ、そんな事情でしたら、譲りまひょ」
 と、陳列ガラスを外して、その写真をとってくれた。
 そんな次郎の親切が君枝は思いがけず、嬉しくて、子供の頃親なし子だといって虐められた時、かばって呉れたのは次郎ぼんひとりだったと想いだすと、君枝はその電気写真の筋向いにある喫茶店へはいって、冷たいものでも飲もうとすすめられたのを、もう断り切れなんだ。
 珈琲をのみながら、他吉の話が出た。
「いまだに俥ひいてますねん。今日は生国魂さんのお渡御《わたり》や言うて……」
「……鎧着て出たはるんですか」
 次郎はちょっと驚いた顔だったが、
「これもみな、うちに甲斐性が無いさかい……」
 と、しょげかかる君枝を押えて、わざと、歳はとってもやっぱり「ベンゲットの他あやん」は元気でんなあと微笑んで見せ、
「それじゃ、何ですか、今でもやっぱり人間はからだを責めて働かな嘘やという主義は、守ってはるんですなあ」
 と、君枝をかばう口調になった。
「――そう言えば、僕だって、他あやんのあの口癖はときどき想いだしましたよ。いや、げんに今だって……」
 自分はからだ一つが資本の潜水業が仕事で、二十二の歳からこの道にはいり、この七年間にたいていの日本の海は潜って来、昨日から鶴富組の仕事で、大阪の安治川へ来ているのだと、次郎は語った。
「……もっとも、こんどのはたいした仕事じゃなく、お話にならんくらいのちいさな船の解体で、たいして乗気じゃなかったんだが、しかし大阪ときくと懐しくてね、ついふらふらと来てしもたわけですよ」
 次郎は君枝にどの程度の親しさで語って良いか、迷っているような言葉づかいであった。
 が、君枝はざっくばらんな言い方に頼もしさを感じ、ふとまじる大阪訛りになつかしさをそそられ、丁寧な口調の出る時は何か赧くなった。
 次郎は珈琲を何杯もおかわりし、ストローを使わずに、がぶがぶと一息にのみほし、氷のかたまりも瞬く間に咽へ入れてしまった。
 そんな逞ましい飲み振りを見ていると、君枝はふと次郎がかつて日の丸湯の男湯で、ひとりあばれまわって、番台からよく叱られていたことなどを想いだしたので、そのことを言うと、
「そうそう、僕は日の丸湯の中で、〆さんが五十読む間、潜ってたことがあるよ。いつだったか、〆さんがあんまりゆっくり数を読むので、もうちょっとで眼をまわしかけて〆さんの足にしがみついたら、〆さんがびっくりして飛び上ったもんやから、そいで僕も頭を出したけど、〆さんが飛び上らなんだら、僕もうあの時におだぶつやった」
 次郎は存外話し上手で、
「――しかし、考えてみたら、あの時分から僕は潜るのが好きやったんやなあ」
 だから、東京の品川にある写真機店へ奉公に行って三年、ひと通り現像の仕事を覚えた頃には、もうそこを飛びだして、現像を頼みに店へよく来ていた木下という写真道楽の潜水夫の世話で、房州布良の吉田親分のところへ弟子入りして、潜水夫の修業をはじめた。
 普通潜水の修業は、喞筒《ポンプ》押し一年、空気管持ち一年、綱持ち一年で、相|潜《もぐ》りとなるまでには凡そ四年掛るのだが、それを天分があったのか、それとも熱心の賜でか、弟子入りして二年目にはもう相潜りになった。
 いったいに潜水夫の仕事は、沈船作業(単に荷物を揚げるような簡単なものから、爆破解体、巨大船の浮上のような大規模なもの)のほかに、築港、橋梁、船渠等の水底土木作業や水産物の採集などであるが、沈船作業は主として春から夏の頃の凪ぎの海に限られており、水産物採集には勿論漁期がある。だから陸上工場のように絶えず仕事が一定しているわけではなく、その間生活の安定を得るためには、これらの特技のうち二つ乃至三つの種類に馴れる必要があるが……、
「自慢するようやけど、僕は一人前の潜水夫になってから、三年のうちに、必要な技術をすっかり覚えてしまったわけですよ」
 と、次郎は語った。
「しかし、現像の方かてころっと忘れてしもたという訳じゃないですよ。いまだに仲間の撮したのを時々現像してやってるけど――そうそう、お君ちゃん、あんたの今の写真、なんやったら僕が味善《あんじょ》う引伸したげよか、
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