それ大分剥げてるから……」
「おおけに、でも、そんなことして貰たらお気の毒ですわ」
「お気の毒なんて、水臭い。同じ河童路地に住んでた仲やないですか」
君枝は「仲」という言葉になにがなしに赧くなった。
「――とにかくその写真預っときます」
次郎は写真をうけとって、
「――早い方が良いでしょう。明日までに引伸してあげますよ。夕方渡してあげます」
きびきびした東京弁で言った。
「はあ、おおけに」
「どこが良いかな」
「……?……」
「中之島公園が良いだろう。中之島公園で渡してあげます。来られますか」
次郎はちょっと考えて、そう言った。
君枝は急に珈琲のストローから口をはなして、次郎の逞ましい顔を見上げ、そこに何か異性を感じた。
「はあ、でも……」
十三、七つの子供の頃ならともかく、お互い成長したふたりが、公園などで会うのは大それたことのように思われ、きゅっと心の姿勢が窮屈になった。
君枝は自動車の案内係をしている旨を言い、
「今日は公休でっけど、明日は……」
勤めがあるから出られないと下向くと、次郎は、
「でも、仕事は夕方までで済むんでしょう?」
はきはき言った。圧されて、
「はあ、五時に交替ですねん」
「そんなら、五時半頃来られまっしゃろ?」
次郎の大阪弁が君枝の固い心をいくらかほぐした。
「そら、行かれんことあれしめへんけど……」
「そんなら、待ってます」
次郎は伝票を掴んで、
「――出ましょうか」
立ち上りざまに言った。
「ええ」
と、それにうなずいたのが、丁度、公園で待っているということへの返辞にもとれて、君枝は狼狽したが、しかし、
「いいえ、行けません。止めときます」
とは咄嗟にどうしても出なんだ。
「浮いた気持で行くのんと違う。お父さんや母ちゃんの写真の引伸しを貰いに行くのや」
君枝はふと泛んだこれを自分へのいいわけにしながら、勘定を払っている次郎を喫茶店の表で待っていると、
「――今日写真を見に来て、次郎ぼんに会うたんも、ひょっとしたら、写真のひきあわせかも判れへんわ」
思わず呟いた自分の言葉に気の遠くなるほど甘くしびれたが、途端にお渡御《わたり》の太鼓の音が耳に痛くきこえて来た。
西日がきつかった。
鎧を着てよちよち歩いているだろう他吉のほこりまみれの足が想いだされて君枝はそんな甘い想いに瞬間浸ったことが許せないように思い、ちりちり胸が痛んで眉をひそめていると、次郎はいそいそと出て来て、
「こっち歩きましょう」
片影の方へ寄った。君枝の眉をひそめた表情を、日射のせいだと思ったのである。
写真館の隣りに寄席があった。
寄席の隣りに剃刀屋があった。
次郎は剃刀屋の細長い店の奥を覗いてみたが、十年前にそこにいた柳吉の姿はもうそこに見受けられなかった。
が、剃刀屋の向いには、相変らず鉄冷鉱泉[#底本では「鉄霊鉱泉」と誤記]《むねすかし》屋があった。
剃刀屋の隣りに写真屋があった。
写真屋の隣りに牛肉店があった。
名も昔通りのいろは牛肉店で、次郎は千日前はすこしも変らぬなと思いながら通り過ぎようとすると、君枝はなに思ったのか、
「ちょっと……」
と、言って立ち停り、そして、いろはの横町へはいって行った。
そこは変にうらぶれた薄汚ないごたごたした横町で、左手のマッサージと看板の掛った家の二階では、五六人の按摩がお互い揉み合いしていた。その小屋根には朝顔の植木鉢がちょぼんと置かれていて、屋根続きに歯科医院のみすぼらしい看板があった。看板が掛っていなければ、誰もそこを歯医者とは思えぬような、古びたちっぽけな[#「ちっぽけな」に傍点]しもたや風の家で、頭のつかえるような天井の低い二階に治療機械が窮屈にかすんで置かれてあった。
右手は薄汚れた赤煉瓦の壁で、門をくぐると、まるで地がずり落ちたような白昼の暗さの中に、大提燈の燈や、蝋燭の火が揺れて、線香がけむり、自安寺であった。なにか芝居の書割りめいた風情があった。
こんなところに寺の裏門があったのかと、次郎がおどろいていると、君枝は、
「ちょっと……」
待っていてくれと言って、境内の隅の地蔵の前にしゃがんで、頭を下げ、そして、備え付けの杓子で水を掛けて、地蔵の足をたわしでしきりに洗い出した。
地蔵には浄行大菩薩という名がついているのを、ぼんやり眼に入れながら、
「お君ちゃん、えらい信心家やねんなあ。なんに効く地蔵さんやねん?」
傍で突っ立っている所在なさにきくと、君枝は、
「何にでも効くお地蔵さんや」
と、手と声に力を入れて、
「――かりに眼エが悪いとしたら、このお地蔵さんの眼エに水掛けて、洗《あろ》たら良うなるし、胸の悪い人やったら、胸の処《とこ》たわしで撫でたらよろしおますねん」
しきりに洗いながら、言った。
なるほどそう言えば、その地蔵は水垢で全身赤錆びて、眼鼻立ちなどそれと判別しかねるくらい擦り切れていて、胸のあたりの袈裟の模様も見えなくなってしまっている。随分繁昌している地蔵らしかった。
次郎はそんな迷信が阿呆らしく、それを信じているらしい君枝がかえって哀れにすら思われて、
「ほんまに効くのかなあ。僕はあやしいと思うよ」
ずけずけと言ったが、ふと君枝の洗っている部分が地蔵の足だと気がつくと、何か思い当り、
「他あやん、この頃足でもわるいのんとちがうの?」
と、訊いた。
「いいえ、わるいことはあれしまへんけど、お祖父ちゃんは足つかう商売やさかい、疲れが出んように思て……」
こうして願を掛けているのだと、君枝は一所懸命な手の動きでそれを示した。
次郎はいきなり胸うたれて、もう君枝の迷信を咎める気持を捨てた。
「お待遠《まっとう》さん」
立ち上った君枝の、いくらか上気して晴ればれとした顔を見ると、何故ともなしに次郎の心に急に大阪の郷愁がぐっと来て、その拍子に、河童路地での日々がなつかしく想い出された。
路地から見えるカンテキ横丁のしもた屋の二階で、夏の宵、「現われ出でたる武智光秀……」と一つ文句の浄瑠璃をくりかえしくりかえし稽古しているのを、父親が蝙蝠傘の骨を修繕しながら口真似していた――そんなことまで想い出されて、自安寺の表門を出ると、
「お君ちゃん、文楽でも見えへんか?」
と言った。
「そうでんなあ」
迷っていると、
「文楽見たことある? 僕も見たことないけど、久し振りに大阪へ来た序でにいっぺん大阪らしい味を味わうとこ思て」
次郎は言った。
「ええもんや言うことは聴いてまっけど……」
しかし、本当に次郎と一緒にそんなとこへ行ってもよいものかと、君枝は躊躇した。
「どうせ、今日はお祭やろ?」
重ねて次郎に誘われると、君枝は水掛け地蔵へお詣りしたことで気が軽くなっていたせいもあり、うなずいた。
千日前の電車通りを御堂筋の方へ折れて、新橋の方へ並んで歩く途々、君枝は、
「文楽いうたらね、蝶子はん、この頃浄瑠璃習たはるんでっせ」
蝶子の噂をした。
「蝶子はんて、あの種さんとこの?」
「そうだす」
「維康さんどないしたはりまんねん? さっき千日前の剃刀屋覗いたら、居たはれへんかったけど……」
次郎が言うと、君枝は、
「あそこ廃めはったんは、そらもう古い話やわ。十年も昔になりまっしゃろか」
と、話しだした……。
3
高津神社坂下の小さな店で剃刀屋を始めたが、はやらなかった。東西屋を雇って開店した朝、蝶子は向う鉢巻きでもしたい気持で店の間に坐っていた。午頃、
「さっぱり客が来えへんな」
と、柳吉は心細い声をだしたが、蝶子はそれに答えず、眼を皿のようにして表を通る人を睨んでいた。
午過ぎ、やっと客が来て安全剃刀の替刃一枚六銭の売上げという情けないありさまだった。
「まいどおおけに」
「どうぞごひいきに」
夫婦がかりで、薄気味悪いくらいサーヴィスを良くしたが、人気が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それも殆んど替刃ばかり、売上げは〆めて二円にも足らなかった。
そんな風に客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。
話の種も尽きて、退屈したお互いの顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい気がし、退屈しのぎに昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古しに行きたいと言いだす柳吉を、蝶子はとめる気も起らなかった。
柳吉は近くの下寺町で稽古場をひらいている竹本組昇に月謝五円で弟子入りし、二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁って、毎日ぶらりと出掛けた。柳吉は商売に身を入れるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなった。その声がいかにも情けなく、蝶子は上達したと褒めるのもなんとなく気が引けた。
毎月食い込んで行ったので、蝶子は再びヤトナに出た。苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業《しょうばい》大事とつとめて、一人で座敷を浚って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われなかった。ひとつには、柳吉の本妻は先年死に、蝶子も苦労の仕甲斐があった。
ところが、柳吉はそんな蝶子の気持を知ってか知らずにか、夕方蝶子が三味線を入れた小型の手提げ鞄をもって出掛けて行くと、そわそわと早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店で、かやく飯とおこぜ[#「おこぜ」に傍点]の赤出しを食べ、鳥貝の酢味噌で酒をのみ、六十五銭の勘定を払って、安いもんやなあと、「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れしている女にふんだんにチップをやると、十日間の売上げが飛んでしもうた。
ヤトナの儲けでどうにか食いつないでいるものの、そんな風に柳吉の使い方がはげしいので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱した挙句、店の権利の買手がついたのを倖い、思い切って店を閉めることにした。
店仕舞いの大投売りの売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった……。
「……蝶子はんもお気の毒な人やわ。折角維康さんを一人前にして、維康さんのお父さんに、水商売をしてた女に似合わん感心な女や言うて認めて貰おう思たはるのに、維康さんがぼんぼんで、勘当されてても親御さんの財産が頭にあるさかい、折角剃刀店しはっても、一年経つか経たぬうちに、到頭そんな風に店を閉めはって、飛田の近所に二階借りしやはったそうでんねん……」
君枝がそう語ると、
「へえ? そうですか。それから、どないしやはったんです?」
蝶子と柳吉の消息を知りたいという気持よりも、君枝の話を並んで歩きながらききたいという気持から、次郎は言った。君枝は声が綺麗だった。おまけに、次郎には久し振りの大阪弁だ。
「それから、なんでも三年ほど蝶子はんが食うやのまずの苦労して貯めはった金と、維康さんが妹さんから無心して来やはった金で、また商売はじめはったんです」
「どんな商売……?」
「関東|煮屋《だきや》……」
をやろうということになり、適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。
現在年寄夫婦が商売しているのだが、士地柄客種が柄悪く荒っぽいので、おとなしい女中はつづかず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、存外安く造作から道具一切附き三百五十円で譲ってくれた。
階下は全部漆喰で商売に使うから、寝泊りするところは二階の四畳半一間ある切り、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭かったが、廓の往き戻りで人通りも多く、それに角店で店の段取りから出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打った。
新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ福をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾をくぐって、味加減や銚子の中身の工合、商売のやり口を覚えた。
そして、お互
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