たことが、生きて来るのや」
 他吉は呟いた。
 翌日、玉堂が来た時、他吉は、
「わいもベンゲットの他あやんと言われた男や。孫ひとりよう満足に育てることが出来んさかい、ややこしい婆さんを後妻に入れたと思われては、げんくそがわるい」
 と、言って、断ってしまった。
 ところが、翌朝、他吉が竈の前にしゃがんで、飯をたいていると、
「佐渡島はんのお宅はこちらでっか」
 という声といっしょにその婆さんがはいって来た。
 そして、あっけにとられている他吉を押しのけて、
「わてが炊きま」
 竈の前にしゃがんで、懐ろから紐をだして来て、たすき掛けになり、
「あんたはあがって、懐手しとくなはれ」
 五十一ときいたが、竈の火が顔に映って、随分若く見えた。
「おまはん、朝っぱらひとの家へはいって来て、どないしよう言うねん?」
 やっとそれだけ他吉が言うと、
「手伝いに来ましてん」
 と、とぼけた。
 相手が女では「ベンゲットの他あやん」を見せるわけにもいかず、
「うちは手伝いさん頼んだ覚えおまへんぜ」
「ああ、わてかて頼まれた覚えおまへんけど、なにも銭もらお言うネやなし、そないぽんぽん言いなはんな」
 オトラ婆さんは半分喧嘩腰だった。
 そんな押問答の最中に、君枝は眼をさました。
 小さなあくびが突然とまった。
「ああ、おばちゃん」
 君枝は飴でおぼえていた。
「君ちゃん、起きたんか」
 婆さんはいつの間にか君枝の名を知っていて、
「――いま、おばちゃん、御飯たいたげるさかいな、待っててや」
「おばちゃん、今日からうちへ来やはるの?」
 君枝は起きだして来た。
「さあ?――」
 婆さんは他吉の顔を見あげた。
 他吉はわざと汚ったらしく手洟をかんで、横を向いた。
「君枝、まだ早い。寝てエ」
 他吉は君枝を叱ったが、しかし、君枝が婆さんの袂にあらかじめはいっていた飴玉を貰う時には、もう叱らなかった。
 飯が炊けると、オトラはお櫃にうつそうとした。
 部屋の中を掃除していた他吉は、飛んで来て、しゃもじ[#「しゃもじ」に傍点]を奪い御飯を仏壇の飯盛りにうつした。
 そして、
「おばはん、もう帰り。――帰らんかッ!」
 と、言った。
 相当きつい見幕だったので、オトラは驚いて帰って行った。
 が、彼女は他吉が俥をひいて出て行ってから、こっそりやって来たらしい。
 羅宇しかえ屋の婆さんが、夜女湯で一銭天婦羅屋の種吉の女房に語っているのを、他吉が男湯ではっきりきいたところによると、オトラは君枝が学校からひけて帰って来るのを、路地の入口で待ちうけて、一緒になかへはいり、飯を食べさせたり、千日前へ連れて行ったりして、他吉の帰る間際まで、君枝の相手になっていたということだった。
「今日お前千日前へ行ったんか」
 他吉は君枝のおなかを洗ってやりながら、きくと、
「行った」
「千日前のどこイ行ってん?」
「楽天地いうとこイ行った」
「おもろかったか」
「うん、おもろかったぜ。おばちゃん泣いたはった」
「なんぜや」
「芝居がかわいそうや言うて、泣いたはった。――ほんまに、おもろかったぜ」
 顎の下をシャボンをつけて、洗われながら、君枝は言った。
 他吉は手拭にぐっと力を入れて、
「なんぜいままで黙ってたんや?」
「そない言うたかテ……」
「おばちゃんが黙ってエ言うたんやろ?」
 君枝はうなずいた。
「仕様のない婆やな」
「痛い、そないこすったら痛い!」
 君枝が声をあげたので、他吉は手をゆるめて、オトラのことは成行きに任すより仕方がないと思った。
 そして、君枝が折角オトラになついて、オトラを慕っているものを、むげに引きはなしてしまうのも可哀想だと、翌る朝またオトラが飯をたきに来た時はもう他吉はきつい言葉を吐かなかった。
 オトラも要領がよく、飯をたいてお櫃にうつす前に、仏壇にそなえることも忘れなかった。君枝を学校へも送って行った。
 他吉は出て行く時、
「おばはん、君枝をたのんどきまっせ」
 と、言った。
「よろしおま、よろしおま」
 オトラは眼をかがやかし、今日も活動小屋を休む肚をきめた。
「しかし、夜さりはわいの戻って来るまえに、帰ってもらうぜ。近所の手前もあるさかいな」
 他吉は相手の顔を見ずに言った。したがってオトラがどんな顔をしたか、判らなかった。
 そんことが五日続いた。
 朝日軒のおたかはかねがね近所の誰が嫁を貰っても、また、嫁いでも、それを見ききした日は必らず頭痛を起すという厄介な習慣をもっていたが、安の定[#「安の定」は「案の定」の誤記か]オトラのことで頭痛を起して、二日ねこんだ。
 玉堂は可哀想に仲人口をきいたというので、おたかの心性をわるくし、朝日軒の奥座敷へ行っても、あまり良い顔をされなかった。

     7

 オトラがいよいよ明日あたり御蔵跡から自分の荷物をはこんで来るという日のことである。
 さすがに他吉は心がそわついて、いつもより早く俥をひきあげて、夕方まえに路地へ戻って来ると、三味線の音がきこえていた。
[#ここから2字下げ]
「高い山から
谷底見れば
瓜や茄子の
……………」
[#ここで字下げ終わり]
 三味線に合わせて歌っているのが君枝だとわかると、他吉はいきなり家の中へ飛びこんで、オトラをなぐりつけた。
「この子を芸者にするつもりか。何ちゅうことをさらしやがんねん」
 オトラは色をかえた。
「ああ痛ア。無茶しなはんな。三味線|教《おせ》るのがなにがいきまへんねん?」
 眼を三角にして食って掛り、
「――芸は身を助けるいうこと、あんた知らんのんか。斯《こ》やって、ちゃんと三味を教《おせ》とけば、この子が大きなって、いざと言うときに……」
「……芸者かヤトナになれる言うのか。阿呆! あんぽんたん」
 他吉はまるで火を吹いた。
「――そんなへなちょこ[#「へなちょこ」に傍点]な考えでいさらしたんか。ええか、この子はな、痩せても枯れても、ベンゲットの他あやんの孫やぞ。そんなことせいでも、立派にやって行けるように、わいが育ててやる。もう、お前みたいな情けない奴に、この子のことは任せて置けん。出て行ってくれ。出て行け! 暗うなってからやと夜逃げと間違えられるぜ。明るいうちに荷物もって出て行ってもらおか」
「ああ、出て行くとも」
 オトラは荷物をまとめて本当に出て行った。
「おばちゃん、どこイ行くねん」
 と、君枝が随いて行こうとするのを、他吉はいつにない怖い声で、
「阿呆! 随いて行ったら、いかん。どえらい目に会わすぜ」
 それきりオトラは顔を見せず、他吉はサバサバした。
 朝日軒のおたかはなにか昂奮して、おからを煮いて、もって来た。
 ところが、他吉が芸者やヤトナの悪口を言ったというので、同じ路地の種吉との間にいざこざが持ち上った
 種吉は河童路地の入口で、牛蒡、蓮根、芋、三ツ葉、蒟蒻、紅生姜[#「姜」は底本では「萋」となっている]、鯣《するめ》、鰯など一銭天婦羅を揚げ、味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようであった。
 蓮根でも蒟蒻でも随分厚身で、女房のお辰の目にひき合わぬと見えたが、種吉は算盤おいてみて、
「七厘の元を一銭に商って損するわけはない」
 しかし、彼の算盤には炭代や醤油代がはいっていなかったのだ。
 自然、天婦羅だけでは立ち行かず、近所に葬式があるたび、駕籠かき人足に雇われた。氏神の生国魂《いくだま》神社の夏祭には、水干を着てお宮の大提燈を担いで練ると、日当九十銭になった、鎧を着ると、三十銭あがりだった。種吉の留守には、お辰が天婦羅を揚げたが、お辰は存分に材料を節約《しまつ》したから、祭の日通り掛りに見て、種吉は肩身の狭い想いをし、鎧の下を汗が走った。
 そんな気性ゆえ、種吉は年中貧乏し、毎日高利貸が出はいりした。百円借りて、三十日借りの利息天引きで、六十円しかはいらず、日が暮れると、自転車で来て、その日の売り上げをさらって行った。俗にいう鴉金だ。
 種吉は高利貸の姿を見ると、下を向いてにわかに饂飩粉をこねる真似したが近所の子供たちも、
「おっさん、はよ牛蒡《ごんぼ》揚げてんか」
 と、待て暫しがなく、
「よっしゃ、今揚げたるぜ」
 と言うものの、摺鉢の底をごしごしやるだけで、水洟の落ちたのも気附かなかった。
 種吉では話にならぬから、路地の奥へ行きお辰に掛け合うと、彼女は種吉とは大分ちがって、高利貸の動作に注意の眼をくばった。催促の身振りがあまって、板の間をすこしでも敲いたりすると、お辰はすかさず、
「人の家の板の間たたいて、あんたそれで宜しおまんのんか」
 血相かえるのだった。
「――そこは家の神様が宿ったはるとこだっせ」
 芝居のつもりだが、矢張り昂奮して、声に泪がまじるくらい故、相手は些かおどろいて、
「無茶言いなはんな。なにもわては敲かしまへんぜ」
 むしろ開き直り、二三度押問答の挙句、お辰は言い負けて、素手では帰せぬ羽目になり、五十銭か一円だけ身を切られる想いで渡さねばならなかった。
 それでも、一度だけだが、板の間のことをその場で指摘されるとなんとも、申し訳けのない困り方でいきなり平身低頭して詫びを入れ、ほうほうの態で逃げ帰った借金取りがあった――と、きまってあとでお辰の愚痴の相手は娘の蝶子であった。
 蝶子はそんな母親をみっともないとも哀れとも思った。それで、尋常科を卒《で》て、すぐ日本橋筋の古着屋へ女中奉公させられた時は、すこしの不平も言わなかった。どころか、半年余り、よく辛抱が続いたと思うくらい、自分から進んでせっせと働いた。お辰は時々来て、十銭、二十銭の小銭を無心した。
 ところが、冬の朝、黒門市場への買い出しの帰り廻り道して古着屋の前を通り掛った種吉は、店先を掃除している蝶子の手が赤ぎれて血がにじんでいるのを痛々しく見て、そのままはいって掛け合い、連れ戻した。
「よう辛抱したな。もうあんな辛い奉公はさせへんぜ」
 種吉は蝶子に言い言いしたが、間もなく所望されるままに女中奉公させた先は、ところもあろうに北新地のお茶屋で、蝶子は長屋の子に似ず、顔立ちがこじんまり整い、色も白く、口入屋はさすがに烱眼だった。何年かおちょぼ[#「おちょぼ」に傍点]をして、お披露目した。三年前のことである。
 が、種吉ははじめから蝶子をそうさせる積りはさらになく、じつは蝶子が自分から進んで成りたいといった時、おどろいて反対したくらい故、他吉がオトラに言った言葉は、一そう種吉の耳に痛かったのだ。
 種吉は他吉の家の戸をあけるなり、もう大声で、
「他あやん、さっきから黙ってきいてたら、お前えらい良え気なことを言うてたな」
「藪から棒に何言うてんねん? 羅宇しかえ屋のおばはんみたいな声だして……」
「お前うちのことあてこすってたやろが……」
「どない言うねん? いったい……訳わかれへんがな。――まあ、あがりイな」
「ここで良え!」
 突っ立ったまま、
「――胸に手エあてて、とっくり考えてみイ」
 精一杯の見幕をだしたつもりだったが、もともと種吉は気の弱い男で、おろおろと声がふるえて、半泣きの顔をしていた。
「さあ、なんぞ言うたかな」
「芸者がどないか、こないか言うたやろ。他あやん、お前わいになんぞ恨みあんのんか。えッ? お前に腐った天婦羅売ったか」
「ああ、そのことかいな。そう言うた」
 他吉は思い当って、
「――それがどないしてん?」
「芸者がなにが悪いねん?――そら、他あやんとわいとは派アがちがう。しかし、なにもわいが娘を芸者にしたからというて、あない当てこすらいでもええやないか。だいいち、お前あの時どない言うた……?」
 ……蝶子がお披露目する時、他吉はすこしでも費用が安くつくようにと、自身買って出て無料の俥をひいてやったが、その時他吉は……、
「……わいも今まで沢山《ぎょうさん》の芸子衆を乗せたが、あんな綺麗な子を乗せたことがない、種はん、ほんまに綺麗やったぜエ――と、言うたやないか」
「そやったな」
 三年前のことを想いだして微笑していると、
「それを今更あんなきついこと言うテ、どだい殺
前へ 次へ
全20ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング