て来た。
「ドンツク、ドンツク、南無妙法蓮華経、ドンツク、ドンツク」
太鼓の口真似をしているのは、君枝だ。
あ、もう機嫌がなおったのかと、他吉は思わず壁を見たが、やがて、こそこそ蒲団のなかへもぐり込もうとした途端、ふと、孫が傍にいないことが寂しく来て、ベンゲットの夜はいつもこんなうらぶれた気持で寝たのだという想いが、ひっそりと、胸に落ちた。
ところが、どれだけ寝たか、ふと眼をさますと、〆団治のところで寝ていた筈の君枝がこそこそ傍へもぐり込んで[#「もぐり込んで」は底本では「もぐ込りんで」と誤記]来た。
他吉はほっと心に灯を点して、
「君枝、帰って来たんか。そうか。やっぱりお祖父やんとこの方がええやろ? 〆さんは鼾かくさかい、うっとうしい[#「うっとうしい」に傍点]やろ、さあ、はいり、はいり、もっと中へはいり」
君枝の頭へ蒲団をかぶせてやり、
「――お前はどこがいちばん好きや。〆さんとこか、お祖父やんとこか」
「わて狭山のお婆んのとこが好きや」
「あッ」
よしんば里子でも、やはり子供は女の傍で寝るのが良いのかと、他吉は暫らく口も利けなかったが、やがて、
「――そいでも、お祖父やんとこかて、好きやろ?」
「灸[#「灸」は底本では「炙」となっている]すえへんか」
「すえへん、すえへん」
「ほんなら好きや」
「そか、好きか」
可愛さに気の遠くなる想いで、頭髪の熱っぽい匂いをかぎながらじっと君枝を抱いていると、〆団治が、[#底本では、「〆団治」の前で改行して、改行後はじめの一字下げしていない]
「他あやん、えらいこっちゃ。君やんが夜中に居らんようになった」
家出したのとちがうやろかと、寝巻きのままで、血相かえてやって来た。
「〆さん、何寝とぼけてるねん」
君枝をわざと蒲団の中へ押しかくしながら、言うと、〆団治も気がついて、
「なんや、ここに居てたんかいな。ああ、びっくりした。ひとの悪い子やぜ、ほんまに」
「おまはんは鼾かくさかい、いやや言うとるぜ。お祖父やんとこの方がええなあ、君枝」
「そんな殺生な――」
言いながら、表へ出ると、日の丸湯で湯槽の湯を抜いて床を洗っている音がザアザアと聴えて来て、河童路地もすっかり更けていた。
甘酒屋の婆さんが飼うている※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66、64−2]はきちがいだろうか、夜も明けぬのにだしぬけに頓狂な鳴声を立てた。
その声をききながら、〆団治がもとの蒲団へもぐり込もうとすると、足がひやりとした。
見ると、寝小便の跡があった。
なるほど、それで逃げてかえったのかと、〆団治はふと他吉の喜んでいた顔を想った。
6
ある夜おそく、折箱の職人の家に間借りしている活動写真館の弁士がにやにや笑いながらはいって来て、どす濁った声で言うのには、
「他あやん、あんたこの間新世界で三味線をもった五十くらいの婆さんを乗せなかったかね」
「なんや、刑事みたいなものの言い様するねんなあ、気色のわるい。玉堂はん、眼鏡かけてる思て威張りなや」
「ははは……」
左手で太いセルロイドの眼鏡を突きあげながら、橘玉堂はさむらいめいた笑い声を立てて、
「――なにが僕が刑事なもんか。僕は今日は仲人ですよ」
「仲人……? そら、お門ちがいや、うちの孫はまだ十やさかいな、おまはん仲人したかったら、散髪屋のおばはんとこイ行きなはれ」
「聴こえるがな、聴こえたら、また朝日軒のおばはん頭痛を起しまっせ」
広島生れの玉堂は下手な大阪訛りで言って、ちょっと赧くなった。
最近、朝日軒のおたかは頭痛を起して三日寝こんでいた。
日の丸湯の向いのミヤケ薬局はもう息子の儀助の代になっていたが、儀助の妻が三人の子供を残して死ぬと、途端におたかは駈けつけて、葬式万端の手つだいをし、はた目もおかしいほどであった。
おくやみを述べるのにも、なにかいそいそとしていた。
その後、彼女はなにかと病気の口実を設けて、薬の調合をして貰いに行った。
儀助は口髭を生やし、敬吉と同じように町内会の幹事をしていた。なお、敬吉と同い歳の四十二歳で、義枝と三つちがい、その点でも釣合っていると、おたかは思い、義枝がいきなり三人の子供の母親になれば、どうなるかと、義枝のちいさい身体をひそかに観察したりした。
かねがねおたかは、将棋好きの敬吉が商売を留守にしてはいけぬと思い、店の前に縁台をだすことを禁じていたが、やがて夏が来ると、自分から縁台を持ち出した。儀助が将棋好きだったのである。敬吉は田舎初段であったが、おたかに言いふくめられて、三度に一度儀助に負けてやった。
もはや、ひとびとは義枝が儀助の後妻になるものと疑わなかったが、秋になると、儀助のところへ、江州から嫁が来た。平べったい器量のわるい顔のくせに、白粉をべたべたとぬり、けれども実科女学校を出ているということであった。
花嫁の自動車が来る時分になると、義枝は定枝や久枝と一しょにぞろぞろと見に行った。自動車が薬局の前に停ると、義枝の眼は駭いたように見ひらいて、一そう澄んだ青さをたたえた。浅黒いわりに肌面の細かい皮膚は、昂奮のあまりぽうっと紅潮して、清潔な感じがした。
帰って来ると、おたかは、
「しようむないもん見に行かんでもええ。阿呆やなあ」
と、にわかに熱が高まったようで、蒲団の中へもぐり込んだ。
ところが、ものの一時間も経たぬうちに、おたかは立ち上って、薬局へ祝いの酒肴など持って行き、夜おそくまで薬局の台所でこまごまと婚礼の手伝いをした。
そして、翌日から頭痛がすると言って、三日寝こんだのである。心配した義枝が買って来た薬の袋にミヤケ薬局とあるのを見て、おたかは理由もなく、泣いて義枝を叱ったということであった……。
玉堂はそのことを言ったのだが、しかし彼が赧くなったのは、ちかごろ彼は用事もないのに朝日軒の奥座敷へちょくちょく出かけているからであった。
玉堂が行くと、義枝はおどおどして、お茶をもって来た。玉堂はまだ三十二歳、朝日軒の末娘は二十歳で、玉堂の顔を見ると、ぷいと顎をあげて、出て行き、彼はちょっと寂しかった……。
それを想い玉堂は赧くなったが、すぐもとのにやにやした顔になると、
「いったい乗せたのか、乗せなかったのか、どっちなんだね?」
と、言った。
「それ訊いて、どないするちゅうネや」
さからっていると、もう炬燵のなかに、はいっていた君枝が、むっくり起き上って、
「三味線もったはるおばちゃんやったら、乗らはった、乗らはった」
と、言った。
「そやったかな。よう覚えてるなあ」
他吉が言うと、君枝は、
「そら覚えてる。うしろから随いて走ってるわてが可哀想や言うて、どんぐり(飴)くれはったさかい」
いつにないはきはきした声だった。
「それじゃ、やっぱり、そうだったのか」
玉堂は大袈裟にうなずいて、
「――実は他あやん、その婆さんというのが、僕のいる館《こや》の伴奏三味線を弾いている女でね」
「それがどないしてん? なんぞ、俥のなかに忘れもんでもしたんか? そんなもん見つかれへんかったぜ」
「まあ、聴きイな」
彼女は御蔵跡の下駄の鼻緒屋の二階に亭主も子供も身寄りもなく、ひとりひっそり住んでいる女だが……
「めったに俥なんか乗ったことのないくせに、この間、偶然あんたの俥に乗ったというのが、なにかの縁だろうな……」
他吉の俥のあとからよちよち随いて来る君枝の姿を見て、彼女はむかし松島の大火事で死なしたひとり娘の歳もやはりこれくらいであったと、新派劇めいた感涙を催し、盗んで逃げたい想いにかられるくらい、君枝がいとおしかった。夜どおし想いつづけ、翌日小屋に来て誰彼を掴えて、その奇妙な俥ひきの祖父と孫娘のことを語っているのを、玉堂がきいて、あ、それなら知っている僕の路地にいる男だと言うと、彼女は根掘り他吉のことをきき、祖父ひとり孫ひとりのさびしい暮しだとわかると、ぽうっと、赧くなって、わてもひとり身や。そして言うのには、あの人に後添いを貰う気持があるか訊いてくれ、わてにはすこしだが、貯えもある、もと通り小屋に出てもよし、近所の娘に三味線を教えてもよし、けっしてあの人の世帯を食い込むようなことはしない、玉堂はん頼みます云々……
「……年甲斐もなく、仲人を頼まれたわけだが、他あやんどないやね。君ちゃんの境遇を憐れんで、あんたと苦労してみたいと言うところが良いじゃないか。もっとも、あんたはどっか苦味走ったところがあるからね、奴さん相当眼が高いよ」
玉堂が言うと、他吉はぷっとふくれた。
「年甲斐もないちゅうのは、こっちのことや。阿呆なことを言いだして、年寄りを嬲りなはんな。わいはお前、もう五十四やぜ」
「ところが、先方だって五十一、そう恥かしがることはないと思うがな」
玉堂はそう言って、明日また来るから、それまで考えて置いてくれと、帰って行った。婆さんの名はオトラと言った。
他吉はぽかんとしてしまった。腹が立つというより、照れくさかった。からかわれた想いもあり、どんな顔の婆さんかと、想いだしてみる気もしなかった。
「此間《こないだ》のおばちゃん、うちへ来やはるのん?」
炬燵の火を見てやるために、蒲団のうしろから顔を突っこんでいると、君枝がぼそんと言った。
「早熟《ませ》たこと言わんと、はよ寝エ」
君枝のちいさな足を、炬燵の上へのせてやっていると、他吉はふと、ほんとうにあの婆さんが君枝いとしさに来てくれるのであれば、なんぼうこの子が倖せか、と思った。
すると、妙にそわついて来た。
他吉はその婆さんが来た時の状態を想像してみた。
朝、婆さんは暗い内に起きて、炊事をする。竈の煙が部屋いっぱいにこもりだすと、他吉は炬燵のなかから這いだして来る。仏壇に灯明をあげて、君枝を起し、一しょに共同水道場で顔をあらって、家へはいると、もう朝飯の支度ができている。食事が済むと、君枝に今日の勉強の予習をさせる。(婆さんはすこしぐらいなら字が読めるかも知れない)それが済むと、君枝は婆さんに連れられて、学校へ行く。(これまでは甘酒屋の婆さんが連れて行ってくれたのだが、甘酒屋の婆さんはもう腰も曲り、どうかすると、面倒くさがった)その間に他吉は俥の手入れをする。路地ではとんど[#「とんど」に傍点]が始まる。暫らくそれにあたって、他吉は俥をひいて出て行く。小学校の前を通りかかると、子供たちの唱歌がきこえて来る。その中に、君枝の声をききつけようと、ちょっと立ちどまり、耳を傾ける。そして、客待ち場へ行く。他吉の留守中、婆さんはそこら片づけものをしたり、洗濯をしたり、君枝の着物のほころびを縫うたりする。君枝が学校からひけて来ると、婆さんは君枝と遊んでやる。銭湯へも連れて行く。おさらいも監督する。夜、添寝してやる。君枝が寝入っても、婆さんは寝てしまわない。他吉の帰りを待っているのだ。他吉が帰って来ると君枝の寝顔を見ながら一しょに夜食をたべる。時には、隣の〆団治も呼んで、御馳走してやる。夜食が終ると、寝るまえの灯明を仏壇へあげる……。
他吉の想像はろくろ首のようにぐんぐん伸びたが、仏壇のことに突き当ると、どきんと胸さわいだ。
「わいひとりの了見で決められることとちがう。こら、位牌に相談せなどんならん」
他吉は仏壇の前に坐った。
お鶴、初枝、新太郎の三つの位牌のうち、どういうわけか、新太郎の位牌が強く目に来て、さびしくマニラで死んで行った新太郎の気持を想って胸が痛んだ。
源聖寺坂の上の寺の中で、新太郎の顔を殴ったことも、想い出された。
「――ほな、おやっさんがそない行けというねやったら、マニラへ行くわ」
おとなしく、言うことをきいた新太郎の言葉が、にわかに耳の奥できこえた。
親子の想いがぐっと皮膚に来た。
すると、もう他吉は、この家に誰ひとりとして他人を入れたくないと思った。お鶴も初枝もそれをねがっているだろうと、思われた。
この三人は君枝のなかに生きているのだ――そんな想いが、改めて来た。
「君枝とふたり水いらずで暮してこそ、新太郎をマニラで死なし
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