「伊那部寅吉」
「ハイ」
「宇田川マツ」
「ハイ」
「江知トラ」
「ハイ」
 アイウエオの順に名前を読みあげられたが、子供たちは皆んなしっかりと返辞した。
 サの所へ来た。
「笹原雪雄」
「ハイ」
 笹原雪雄とは笹原が君枝の代りに貰った養子である。来賓席の笹原はちょっと赧くなったが、子供がうまく答えたので、万更でもないらしくしきりにうなずいていた。
「佐渡島君枝」
「…………」
 君枝は他所見していた。
「佐渡島君枝サン」
 他吉は君枝の首をつつき、
「返辞せんかいな」
 囁いたが、君枝はぼそんとして爪を噛んでいた。
「佐渡島君枝サンハ居ラレマセンカ? 佐渡島君枝サン!」
 他吉はたまりかねて、
「居りまっせエ、へえ。居りまっせ」
 と、両手をあげてどなった。
 頓狂な声だったので、どっと笑い声があがり、途端におどろいて泣きだす子供もあった。
 さすがに他吉は顔から火が出て、よその子は皆しっかりしているのに、この子はこの儘育ってどうなるかと、がっくり肩の力が抜けた。

     5

 入学式の日は祖父が附添い故、誰にも虐められずに済んだが、翌日からもう君枝は、親なし子だと言われて、泣いて帰った。
 けれど、他吉は俥をひいて出ていて居ず、留守中ひとりで食べられるようにと、朝出しなに他吉が据えて置いた膳のふきんを取って、がらんとした家の中で、こそこそ一人しょんぼり食べ、共同水道場へ水をのみに行って、水道の口に舌をあてながら、ひょいと見ると、路地の表通りで、
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「中の中の小坊さん
なんぜエ背が低い
親の逮夜《たいや》に魚《とと》食うて
それでエ背が低い」
[#ここで字下げ終わり]
 そして、ぐるぐる廻ってひょいとかがみ、
「うしろーに居るのは、だアれ?」
 女の子が遊んでいた。
 君枝はちょこちょこ駈け寄って行き、
「わて他あやんとこの君ちゃんや。寄せてんか(仲間に入れてんかの意)」
 と、頼んで仲間に入れて貰ったが、子供たちの名に馴染がなくて、うしろに居るのは誰とはよう当てず、
「あんた、辛気くさいお子オやなア」
 もう遊んでくれなかった。
[#ここから2字下げ]
「通らんせエ
通らんせエ
横丁の酒屋へ酢買いに
行きは良い良い
帰りは怖い
ここは地獄の三丁目」
[#ここで字下げ終わり]
 子供たちの歌を背中でききながら、すごすご路地へ戻って来ると、〆団治は不憫だと落語を聴かせてやるのだった。
 しかし、君枝は笑わなかった。
「わいの落語おもろないのんか」
 〆団治はがっかりして、
「――ええか。この落語はな、『無筆の片棒』いうてな、わいや他あやんみたいな学のないもんが、広告のチラシ貰《もろ》て、誰も読めんもんやさかい、往生して次へ次へ、お前読んでみたりイ言うて廻すおもろい話やぜ。さあ、続きをやるぜ笑いや」
 そして、皺がれた声を絞りだした。――
「さあ、お前読んだりイ」
「あのう、えらい鈍なことでっけど、わたいは親爺の遺言で、チラシを断ってまんのんで……」
「えらいまた、けったいなもん断ってんねんなあ。仕様《しや》ない。次へ廻したりイ」
「へえ」
「さあお前の順番や、チラシぐらい読めんことないやろ。読んだりイ」
「大体このチラシがわいの手にはいるという事は、去年の秋から思っていた。死んだ婆《ば》さんが去年の秋のわずらいに、いよいよという際になって、わいを枕元に呼び寄せて、――伜お前は来年は厄年やぞ。この大厄を逃れようと思たらよう精進するんやぞと意見してくれたのを守らなかったばっかりに、いま計らずもこの災難!」
「おい、あいつ泣いて断りしとる。お前代ったりイ」
「よっしゃ。――読んだら良えのんやろ?」
「そや、どない書いたアるか、読んだら良えのや」
「書きよったなあ。うーむ。なるほど、よう書いたアる」
「書いたアるのは、よう判ってるわいな。どない書いたアるちゅうて、訊いてんねんぜ」
「どない書いたアるちゅうようなことは、もう手おくれや。そういうことを言うてる場席でなし、大体このチラシというもんは……」
「おい。あいつも怪しいぜ、もうえ、もうえ、次へ廻したりイ」
 〆団治は黒い顔じゅう汗を流して、演《や》ったが、君枝はシュンとして、笑わなかった。
「難儀な子やなあ。笑いんかいな」
「わてのお父ちゃんやお母ちゃんどこに居たはんねん?」
「こらもう、わいも人情噺の方へ廻さして貰うわ」
 〆団治はげっそりした声をだした。
 日が暮れて、〆団治が寄席へ行ってしまうと、君枝はとぼとぼ源聖寺坂を降りて、他吉の客待ち場へしょんぼり現われた。
「どないしてん? 家で遊んどりんかいな」
「…………」
「誰も遊んでくれへんのんか」
 それにも返辞せず、腋の下へ手を入れたまま、他吉をにらみつけて、鉛のように黙っていた。
「そんなとこへ手エ入れるもんやあれへん」
 すると、手を出して爪を噛むのだ。
「汚《ばばち》いことしたらいかん。阿呆!」
 呶鳴りつけると、下駄を脱いで、それを地面へぶっつけ、そして、泪ひとつこぼさず、白眼をむいてじっと他吉の顔をにらみつけているのだ。
 他吉はがっかりして子供のお前に言っても判るまいがと、はじめて小言をいい、
「お前はよそ様《さん》の子供|衆《し》と違《ちご》て、両親《ふたおや》が無いのやさかい、余計……」
 ……行儀よくし、きき分けの良い子にならねばならぬ、家で待っているのは淋しいだろうが、そうお祖父《じ》やんの傍にばかし食っついていては万一お祖父やんが死んだ時は一体どうする、ひとり居ても淋しがらぬ強い子供にならねばいけない、あとひとり客を乗せたら、すぐ帰る故、「先に帰って待って……」いようとは、しかし、君枝はどうなだめても、せなんだ。
 他吉は半分泣いて、
「そんなら、お祖父やんのうしろへ随いて来るか。辛度《しんど》ても構《かめ》へんか。俥のうしろから走るのんが辛い言うて泣けへんか」
 そして、客を拾って、他吉が走りだすと君枝はよちよち随いて来た。
 他吉は振りかえり、しばしば提灯の火を見るのだと立ち停って、君枝の足を待ってやるのだった。
 客が同情して、この隅へ乗せてやれと言うのを、他吉は断り、いえ、こうして随いて来さす方が、あの子の身のためだ、子供の時苦労させて置けば、あとで役に立つこともあろうという理窟が――、けれど他吉は巧く言えなんだ。
 よしんば、言えたにしても、――半分は不憫さからこうしているのだ、ひとりで置いといて寂しがらせるのが可哀想だから連れて走っているのだ、いや、マニラで死んだこの子の父親がいまこの子と一しょに走っているのだという気持が、客に通じたかどうか、――客を乗せたあとの俥へ君枝を乗せて帰る途、他吉はこんな意味のことを、くどくど君枝に語って聴かせたが、ふと振り向くと、君枝は俥の上で鼾を立てていた。
[#ここから2字下げ]
「船に積んだアら
どこまで行きゃアる
木津や難波の橋の下ア…………」
[#ここで字下げ終わり]
 他吉は子守歌をうたい、そして狭い路地をすれすれにひいてはいると、水道場に鈍い裸電燈がともっていて、水滴がポトリポトリ、それがにわかに夜更めいて、間もなく夜店だしがいつものように背中をまるめて黙々と帰って来る時分だろうか、ひとり者の〆団治がこそこそ夜食をたべているのが、障子にうつっていた。
 学校での君枝は出来がわるく、教場で他所見ばかししていた。
「佐渡島サン! ソンナニ外ガ見タカッタラ、教場ノ外ヘ出テイナサイ」
 窓の外へ立たされて、殊勝らしくじっとうつむいていた顔をひょいとあげると、先生は背中を向けて黒板に字を書いていた。
 書き終った先生が、可哀想だから、教場の中へ入れてやろうと、窓の外を見た時には、もう君枝の姿は見えなかった。
 驚いた先生が教場を飛びだし、あちこち探すと、講堂の隅の柱にしょんぼり凭れて、君枝は居睡っていた。
 壁にはいつの間に描いたのか、丸まげに結った女と、シルクハット姿の男の顔が茶色の色鉛筆で描いてあり、それぞれ、
「君チャンノオカアチャン」
「君チャンノオトウチャン」
 と、右肩下りの字で説明がついていた。
 間もなく、進級式があった。
 賞品をかかえて、校門から出て来る君枝の姿を、空の俥をひいて通り掛った他吉が見つけた。
「褒美もろたんか、えらかったな、休まん褒美か、勉強の褒美か?」
 毎朝学校へ行くのをいやがり、長願寺の門前で年中甘酒の屋台を出している甘酒屋の婆さんに時々背負って行ってもらうくらい故、休まん褒美を貰える筈がない、してみると、勉強のよく出来た褒美だろうかと、相好くずして寄って行くと、
「違うねん」
 君枝はぼそんと言い、実は病気で休んでいる近所の古着屋の娘の賞品を、ことづかって来たのだった。
 古着屋の娘は一学期出たきりで、ずっと学校を休んで薄暗い奥の部屋でねているのだが、父親が町内の有力者で、学務委員もしていた。
 その夜、他吉はきびしく君枝を叱りつけた。
「ほんまに情けない奴ちゃな。どない言うてええやろ。げんくその悪い。自分が優等にもならんと、よその子の褒美うれしそうに預って来る阿呆が、どこの世界にある? 阿呆んだら! ちっとは恥かしいいうことを知らんかい。来年からきっと優等になるんやぜ。えッ? 優等になるなあ。なれへんか。どっちや。返辞せんか」
「わて優等みたいなもんようならん。それよか空気草履買うてんか。よそのお子皆空気草履はいたアる」
「阿呆んだら。何ちゅう情けない子や、お前は。こっちイ来い。灸[#「灸」は底本では「炙」となっている]《やいと》すえたるさかい」
 掴まえて無理矢理裸かにし、線香に火をつけていると、君枝はわっと泣きだした。
「堪忍や。堪忍や」
 その声に、〆団治がのそっとはいって来て、
「他あやん、お前なに泣かしてるねん?」
「灸[#「灸」は底本では「炙」となっている]すえたろと思たら、お前、泣きだしよったんや」
「当り前や。どの世界にお前、灸[#「灸」は底本では「炙」となっている]すえられて、泣かん子があるかい。大人のわいでも涙出るがな、だいいちまた、すえるにことかいて灸[#「灸」は底本では「炙」となっている]すえる奴があるかい」
「ほな、なにをすえたら良えねん?」
「さいな」
 〆団治はちょっと考えて、
「――阿呆! 嬲りな。だいたいおまはんは、人の背中ちゅうもんを粗末にするくせがあっていかん。男のおまはんなら、背中になにがついてても良えとせえ。しかし、女の子の背中に灸[#「灸」は底本では「炙」となっている]の跡つけてみイ、年頃になって、どない恨まれるか判れへんぜ。難儀な男やなあ」
「そない言うたかて、お前、まあ、聴いてくれ、笹原の小伜も古着屋の子も、みな優等になってんのに、この子はなんにも褒美もろて来よれへんねん。こんな不甲斐性者《がしんたれ》あるやろか」
「そない皆褒美もろたら、だいいち学校の会計くるうがな。だいたいお祖父やんのお前が読み書きのひとつもよう出来んといて、孫が勉強あかんいうて、怒る奴があるかい。なあ、君ちゃん他あやんちょっとも字イ教《おせ》て[#底本では「教《おし》て」となっている]くれへんやろ?」
 〆団治に言われると、君枝は一そう真赤な声で泣きだした。
「泣きな、泣きな。君ちゃん、今晩はおっさんとこで一しょに寝よ。こんな鬼爺のとこで寝たら、どえらい目に会わされるぜ。さあ、行こ、行こ」
 他吉は〆団治がそう言って君枝を連れて行くのを、とめようとする元気もなかった。
 やっぱり里子にやったり、自分の手ひとつで育てて来たのが間ちがいだったかと、げっそりして坐っていると、ふと火をつけたままの線香を握っているのに気がついた。
 他吉はそれを手製の仏壇のところへ持って行った。
 そこには、新太郎の位牌があった。
 燈明をあげて、じっとそれを見つめていると、このまま君枝をどこぞへ遣って、マニラへ行き、新太郎の墓へ詣ってみたいという気持がしみじみ来た。
 隣りから、法華の〆団治が、
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経!」
 と、寒行の口調で唱っているのがきこえ
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