細い声で、ぼそんと言った。
「仕様《しよう》むないこと言いな。お前みたな気イで冷やし飴売りに歩いてたら、飴が腐敗《くさ》ってしまう……」
 言って、他吉はふと眼をひからせた。
「――それとも、よっぽど冷やし飴が売りたけりゃ、マニラへ行きなはれ」
「なんぜまた、マニラへ……?」
 黙っている新太郎に代って、初枝がおどろいて訊くと、
「マニラは年中夏やさかい、モンゴ屋商売して、金時(氷)や冷やし飴売ってても、結構商売になる。大阪にいてては、お前、寒なったら、冷やし飴が売れるか」
「冬は甘酒売ったら、ええ」
 初枝に肱を突かれて、新太郎が言うと、他吉は噛んだろかというような顔をした。
「情けないこと言う男やな。新太郎、よう聴きや、人間はお前、若い時はどこイなと、遠いとこイ出なあかんネやぜ。――お初はわいが預っててやるさかい、マニラへ行って、一旗あげて来い」
「…………」
 二度焼け出されたようなものだと、新太郎が首垂れていると、
「行くか、行けへんか。どっちやねん? 返事せんか。行かんと言うネやったら、わいにも考えがある。お初を……」
「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]。何言うてんねん。死んだお母《か》はんの……」
 遺言忘れたかと、初枝が言いかけるのを、
「お前は黙ってエ」
「黙ってられるかいな」
と、壁一重越しにきいていた〆団治が、くるくるした眼で、はいって来て、
「――他あやん、お前の言い分は、そら目茶苦茶や」
 助け船を出したが、もう他吉はきかず、無理矢理説き伏せて、新太郎をマニラへ発たせた。
 他吉は初枝とふたりで、神戸にまで見送りに行ったが、
「わいもこの船でいっしょに……」
 ……行きたい気持をおさえるのに、余程苦労した。
 その代り、銅羅が鳴るまで、他吉はベンゲット道路の話をし、なお、
「モンゴ屋商売しても、アメリカ人の客には頭を下げんでもええぞ。毎度おおけにと頭が下りかけたら、いまのベンゲットの話を想い出すんやぜ。――それから、歯抜きの辰いう歯医者に会うたら、忘れんと二円返しといてや。わいが虫歯抜いてもろた時の借りやさかい、他あやんがよろしゅう申してました言うて、二円渡しといてや」
 と、言った。
「コレラに罹らんように、気イつけとくなはれや」
 初枝はおろおろして、やっとこれだけ言った。
 初枝は〆団治の世話で、新世界の寄席へ雇われて、お茶子をした。
[#改頁]

   第二章 大正

     1

 そこは貧乏たらしくごみごみとして、しかも不思議にうつりかわりの尠ない、古手拭のように無気力な町であった。
 角の果物屋は何代も果物屋をしていて、看板の字も主人にも読めぬくらい古びていた。
 酒屋は何十年もそこを動かなかった。
 銭湯も代替りをしなかった。
 薬局もかわらなかった。よぼよぼの爺さんが、いまだに何十年か前の薬剤師の免状を店に飾って、頓服を盛っているのだった。もぐさが一番よく売れるという。
 八百屋の向いに八百屋があって、どちらも移転をしなかった。隣の町に公設市場が出来ても、同じことであった。
 一文菓子屋の息子はもう孫が出来て、店先にぺたりと坐って、景品《あてもの》附きの一文菓子を売るしぐさも、何か名人芸めいて来た。
 散髪屋の娘はもう二十八歳で、嫁に行かなかった。年中ひとつ覚えの「石童丸」の筑前琵琶を弾いていた。散髪に来る客の気を惹くためにそうしているらしく、それが一そう縁遠い娘めいた。
 一銭天婦羅屋は十年路地の入口で天婦羅をあげていた。
 甘酒屋の婆さんももうかれこれ十五年寺の門前で甘酒の屋台を出していた。夏でも出していた。
 相場師も夜逃げをしなかった。落語家《はなしか》も家賃を六つもためて、十七年一つ路地に居着いていた。
 路地は情けないくらい多く、その町にざっと七八十もあろうか。
 いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数よりも多いのだ。
 地蔵路地は※[#「※」はL型の直角線]の字に抜けられる八十軒長屋である。
 なか七軒はさんで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。
 入口と出口が六つもある長屋もある。狸《たのき》裏といい、一軒の平家に四つの家族が同居しているのだ。
 銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間の、せまくるしい路地を突き当ったところの空地を、凵の字に囲んで、七軒長屋があり、河童路地という。
 この空地は羅宇《らお》しかえ屋の屋台の置場であり、夜店だしの荷車も置かれ、なお、病人もいないのに置かれている人力車は、もちろん佐渡島他吉の商売道具である。
 この空地は洗濯物の干場にもなる。けれど、風が西向けば、もう干せない。日の丸湯の煙突は年中つまっていて、たちまち洗濯物が黒くなってしまうのだ。
 羅宇しかえ屋の女房は名古屋生れの大声で、ある時、亭主を叱った声が表通りまできこえ、通り掛った巡査があやしんで路地の中まで覗きに来たというくらい故、煙突の苦情は日の丸湯の番台へ筒ぬけだが、日の丸湯の主人はきかぬ振りした。
 また、長屋の中で、改まって煙突の掃除のことで、日の丸湯へ掛け合った者はひとりもない。
 日の丸湯の主人というのは、先代より引き続いて、河童路地の家主であり、横車《ごりがん》も振る男であった。
 河童路地はむかしこのあたりに河童が棲んでいたという噂からそういう名がついたほかに俗に只《ただ》裏ともいい、家賃は只同然にやすいさかいやと、日の丸湯の主人は言っていたが、それさえ誰もきちんと払えた例しはなく、かたがた煙突の苦情も言うて行けなかった。
 つまりは、貧乏長屋であった。
 だから、たとえば蝙蝠傘修繕屋のひとり息子は、小学校にいる間から、新聞配達に雇われて、黄昏の町をちょこちょこ走った。
 明るいうちに配ってしまわぬと、帰りの寺町がひっそりと暗くて怖い。十歳の足で、高津神社の裏門の石段を、ある夕方、ひと日、ふた日は晴れたれど、三日、四日、五日は雨に風、道のあしさに乗る駒も、踏みわずらいて、野路病い……と、歌いながら、あわてて降り、黒焼屋の前まで来ると、
「次郎ぼん、次郎ぼん」
 うしろから呼び止められた。
 振り向くと、血止めの紙きれをじじむさく鼻の穴に詰めこんだ他吉が空の俥をひきながら、にこにこ笑っている。
「他あやん、また喧嘩したんやなア。あんまり売りだしたら、どんならんな」
 二軒並んだ黒焼屋の店先へ、器用に夕刊を投げこみながら、そう言うと、
「さいな、あんまり現糞《げんくそ》のわるい事言いやがったさかい……」
 しかし、――他吉という男はど阿呆や、われが六年もいて一銭の金もよう溜めんといたマニラへ娘の婿を懲りもせんと行かす阿呆があるかと言われて、何をッと腹が立った余りの喧嘩だとは、さすがに子供相手に語りも出来ず、
「お初に告わんといてや」
 しおらしい声で言った。
「さあ。どないしょ? ここが思案の四ツ橋……」
「子供だてらに生意気な言い方しイな。――どや、しかしもう、犬に吠えられたかて、怖いことあれへんか」
「犬か、犬はもう馴れたわ」
「そか、そらええ。次郎ぼん、なんぼでも、せえだい働きや。人間はお前、苦労して、身体を責めて働かな、骨がぶらぶらしてしまうぜ。おっさんら見てみイ。六年まえ、ベンゲットで……」
 松屋町筋まで来た。
「他あやん、もっとほかの話してんか。ベンゲットの話ばっかしや。〆さんの落語《はなし》の方がよっぽどおもろいぜ」
「そら、下手は下手なりに、向《むこ》は商売人や。――どや、しんどいやろ。豆糞ほど(少しの意)俥に乗せたろか」
「なんじゃらと、巧いこと言いよって……。そないべんちゃら[#「べんちゃら」に傍点](お世辞)せんでも、他あやん喧嘩したこと黙ってたるわいな」
 そして、早く配ってしまわねば叱られるさかいと、駈け出して行くのを、他吉は随いて行って、
「ほな、おっさんに夕刊一枚おくれんか」
 その気もなく言うと、
「やったかて、読めるのんかいな。おっさんら新聞見ても、新聞やのうて珍ぷん漢ぷんやろ?」
「殺生な。そんな毒性《どくしょ》な物の言い方する奴あるか。――ほんまはな、夕刊でなこの鼻の穴の紙を……」
 ……詰めかえながら、河童路地へ戻って来ると、めずらしく郵便がはいっていた。切手を見て、マニラの婿から来た手紙だとすぐ判ったが、勿論読めなかった。
 歯抜きの辰という歯医者を探したところ、とっくに死んでいたというたよりがあってから、一月振りの手紙で、こんどはどんなたよりが書いてあるかと、娘の帰りを待ち切れず、〆団治なら読めるだろうと、その足で、
「〆さん、〆さん、留守か。居るのんか。居れへんのんか」
 隣の〆団治に声をかけた。
 すると、羅宇しかえ屋の家の中から、声だけ来て、
「〆さんは寄席だっせ」
「さよか。――ところで、おばはん、けったいな事訊くけど、おまはん字イはどないだ?」
「良え薬でもくれるのんか。なんし、わての痔イは物言うても痛む奴ちゃさかい」
 字と痔をききちがえて、羅宇しかえ屋のお内儀が言うと、
「あれくらい大けな声出したら、なるほど痛みもするわいな」
 と、理髪店朝日軒で客がききつけて、大笑いだった。

     2

 理髪店朝日軒では、先年葬礼の道供養に友恵堂の最中を二百袋も配って、随分近所の評判になった。
 袋には朝日軒と書かれてあり、普通何の某家と書くところを、わざとそうしたのは無論宣伝のためであったろう。
 死んだのはそこの当主で、あと総領の敬吉が家業を継ぐわけだが、未だ若かった、先代は理髪養成学校の創立委員で、嘱託されて教師にもなり、だから死なれて見ると、二代目の敬吉の若さは随分目立つ。おまけに高慢たれで、腕はともかく客あしらいはわるいと、母親のおたかにも心細くわかり、道供養に金を掛ける気持も出たのだろうが、ひとつには、娘の義枝のこともあったのではなかろうか。
 どういうわけか、縁遠いのだ。二十六でまだ片づかぬのはおかしいと、近所の評判がきびしくて、父親も息を引きとる時まで、これを気にしていたくらいだ。
 なお、義枝の下に定枝がいて、二十三といえば、義枝の歳に直ぐだった。しかも、そういう縁遠い小姑が二人もいては、敬吉に嫁の来手もあるまいと二十九歳の敬吉の独身までが目立ち、商売とちがって、ここでは彼の若さも通らなかったわけだ。おまけに、十七の久枝、十三の敬二郎、十の持子もあとに控えている。
 父親の生きている時分はともかく、後家になったいまは、何か肩身のせまい想いに身が縮まって、おたかがそんな道供養を張り込んだ気持も、うなずけるのだった。
 それかあらぬか、葬式が済んで当分の間、おたかは毎日かやく飯や五目寿司を近所へ配った。長屋の者など喜んだのはむろんである。わりにおたかの肩身が広くなったようで、それで娘の歳なども瞬間隠れた。
 義枝はそんな母の心を知ってか知らずにか、忙しく立ち働いて炊事を手伝った。
 小柄で、袖なしなどを色気なく着て、こそこそ背中をまるめ、びっくりしたような眼をしていた。器量もたいして良くなかった。
 筑前琵琶をならい、年中「石童丸」を弾いて、それで散髪に来る客の心を惹いているように誤解されていることは、さきに述べた通りである。
 父親の四十九日が済んで間もなく、紋附きを着た男が不意に来て、義枝の縁談であった。
 気配で何かそれらしく、おたかは随分狼狽した。咄嗟の心構えがつかず、むしろ気恥かしく応待した。取り乱しては嗤われるかねがねの負目で、嬉しい顔も迂濶に出来なかった。
 客は小憎いほど落ち着いて、世間話のまくらをだらだらとふった。
 それで焦らされて、おたかはわざと濃い表情も自然に装えて、顔をしかめた。すると、縁談をきく心用意もどうやら出来たが、そうして落着いたところは、意外にも断る肚であった。
 相手の身分も訊かぬうちに、そんな風に決めて、われながら意固地な母だったが、いまに始ったわけではない。
 ……父親の生きていた頃、三度義枝に縁談があったことはあった。
 相手は呉服屋の番頭、公設市場の書記、瓦斯会社の集金人と、だんだん格が落
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