で、じりじり来たが、とりわけ佐渡島他吉はいきなり血相をかえて、ダバオを発って行き、何思ったのかマニラの入墨屋山本権四郎の所へ飛び込んだ。
 そうして、背中いっぱいに青龍をあばれさせた勢いで、マニラじゅうへ凄みを利かせ、米人を見ると、
「こらッ。ベンゲット道路には六百人という人間の血が流れてるんやぞオ。うかうかダンスさらしに通りやがって見イ。自動車のタイヤがパンクするさかい、要心せエよ。帰りがけには、こんなお化けがヒュードロドロと出るさかい、眼エまわすな。いっぺん、頭からガブッと噛んでこましたろか」
 と、あやしい手つきでお化けの恰好をして見せた途端に、いきなり相手の横面を往復なぐりつけた。
「文句があるなら、いつでも来い。わいはベンゲットの他《た》あやんや」
 それで、いつか「ベンゲットの他あやん」と綽名がつき、たちまち顔を売ったが、そのため敬遠されて、やがて僅かな貯えを資本にはじめたモンゴ屋(金時氷や清涼飲料の売店)ははやらなかった。
 国元への送金も思うようにならず、これではいったいなんのために比律賓まで来たのかわけが判らぬと、それが一層「ベンゲットの他あやん」めいた振舞いへ、他吉を追いやっていたが、やがて「お前がマニラに居てくれては……」かえってほかの日本人が迷惑する旨の話も有力者から出たのをしおに、内地へ残して来た妻子が気になるとの口実で、足掛け六年いた比律賓をあとにした。
 神戸へ着いて見ると、大阪までの旅費をひいて所持金は十銭にも足らず、これではいくらなんでも妻子のいる大阪へ帰れぬと、さすがに思い、上陸した足で外人相手のホテルの帳場をおとずれ、俥夫に使うてくれと頼みこむと、英語が喋れるという点を重宝がられて、早速雇ってくれた。
 給料はやすかったが、波止場からホテルへの送り迎えに客から貰うチップが存外莫迦にならず、ここで一年辛抱すれば、大阪へのよい土産が出来る、それまではつい鼻の先の土地に妻子が居ることも忘れるのだ、という想いを走らせていたが、三月ばかり経ったある日、波止場で乗せた米人を、どう癪にさわったのか、いきなりホテルの玄関で、俥もろともひっくりかえし、おまけに謝ろうとしないのがけしからぬと、その場でホテルを馘首になった。
 その夜、大阪へ帰った。六年振りの河童路地《がたろろじ》のわが家へのそっとはいって、
「いま、帰ったぜ」
 しかし、返事はなく、家の中はがらんとして、女房や、それからことし十一歳になっている筈の娘の姿が見えぬ。
 不吉な想いがふと来て、火の気のない火鉢の傍に半分腰を浮かせながら、うずくまっていると、
「誰方――?」
 ぬっと軒口《かどぐち》から顔を出した者がある。
「よう〆さんか?」
 相変らずでっぷりして、平目のような頬ぶくれした顔は、六年会わぬが、隣家に住んでいる〆団治だと、一眼でわかった。
「なんや、おまはんやったんか。今時分人の家へ留守中にはいって、何やらごそごそしてるさかい、こらてっきり泥的やと思たがな……」
 前座ばかり勤めているが、さすがに落語家で、〆団治のものの言い方は高座の調子がまじっていて、他吉は大阪へ帰って来たという想いが強く来た。
「――しかし、他あさん、よう帰って来たな。いったいいつ帰って来てん? 言や言うもんの、お前、もう足掛け六年やで」
「いま帰ったとこや」
 他吉はちょっと固垂をのみ、
「――ところで、皆どこイ行きよってんやろ。影も形も見えんがな」
 夜逃げでもしたのではないかという顔で、訊くと、
「声はすれども、姿は見えぬ、ほんにお前は屁のような……」
 〆団治はうたうように言って、
「――今日はお午《うま》の夜店やさかい、そこイ行ったはんネやろ」
「さよか。――」
 他吉はああ、よかったと、ほっとしたが、急に唇をとがらせて、
「このくそ寒いのに、夜店みたいなもん、見に行かんでもええのに……。子供が風邪ひいたらどないすんねん。ほんまに、うちのかか[#「かか」に傍点]はど阿呆[#「ど阿呆」に傍点]やぜ」
 そう言うと、〆団治は、なにを莫迦なこと言うてんねん、他あやんよう聴きやと、一喋り喋る弾んだ口つきになって、
「お鶴はんが、何の夜店見物に行くひとかいな。お鶴はんはな、お初つぁん[#底本では「お初っあん」となっている]と一緒に夜店へ七味《なないろ》唐辛子を売りに行ったはるねんぜ」
「えっ? ほな、なにか。夜店出ししとんのんか」
 他吉は毛虫を噛んだような顔をした。
「さいな。おまはんがヘリピンとかルソンとか行ったはええとして、ちっとも金は送っては来んし……」
「送ったぜ」
「はじめの二三年やろ? あとはお前鐚一文送って来ん、あとに残った二人がどないして食べて行けるねん? 夜店出しなとせんと、餓死してしまうやないか。ほんにお前は薄情な亭主やぜ。お鶴はんは築港に二階つきの電車が走っても、見に行きもせんと、昼は爪楊子の内職をして、夜はお前、夜店へ出て、うちのくそ親爺め言うて、ぽろぽろ涙こぼしこぼし、七味混ぜたはんねんぜ」
 いかにもそれらしい表情で、七味唐辛子を混ぜる恰好をして見せた〆団治の手つきを見るなり、他吉は胸が熱くなり、寒い風が白く走っている戸外へ飛び出した。
 谷町九丁目の坂を駈け降りて、千日前の裏通りに出ているお午の夜店へ行くと、お鶴が存外小綺麗な店にちょこんと坐って、ガラス箱の蓋を立てかけた中に前掛けをまいた膝を見せ、赤切れした手で七味を混ぜていた。娘の初枝は白い瀬戸火鉢をかかえて、まばらな人通りを、きょとんと見あげていた。
 物も言わずにしょんぼり前に立った。
「おいでやす」
 言って見上げて、お鶴は他吉だとすぐ判ったらしく、
「阿呆んだら!」
「御機嫌さん。達者か」
 他人にもの言うような口を利くと、もう一度、
「阿呆んだら!」
 お鶴は泣いていた。
 それが六年振りの夫婦の挨拶であった。初枝は父親の顔を忘れているらしかった。水洟を鼻の下にこちこちに固めて、十一歳よりは下に見えた。
「あんた、なんぜ、手紙くれへんかってん。帰るなら帰ると……」
 お鶴の髪の毛は、油気もなくばさばさと乱れて、唐辛子の粉がくっついていた。
 唐辛子の刺戟がぷんと鼻に眼に来て、他吉は眼をうるませた。
「出せ言うたカテ、出せるかいな。わいに字が書けんのは、お前かてよう知ってるやろ。亭主に恥かかすな」
 他吉はわざと怒ったような声で言い、
「――しかし、大阪は寒いな」
 と、初枝のかかえている火鉢の傍へ寄った。

     3

 翌日から、他吉がひとりで夜店へ出て、七味唐辛子の店を張った。
 場割りの親方が、他吉を新米だと思ってか、
「唐辛子はバナナ敲きの西隣りや」
 と、いちばんわるい場所をあてがうと、他吉はいきなり「ベンゲットの他あやん」の凄みを利かせて、良い場所へ振りかえて貰ったが、
「ああ、七味や、七味や、辛い七味やぜ、ああ、日本勝った、日本勝った、ロシヤ負けた。ああ、七味や、七味や!」
 普通爺さん婆さんがひっそりと女相手に売っている七味屋に似合わぬ、割れ鐘のような掛け声をだしたので、客は落ち着いて、七味の調合にこのみの注文をつけることも出来ず、自然客足は遠ざかった。
 招き猫の人形みたいに、ちょこんと台の上に坐って、背中を猫背にまるめてごしごし七味を混ぜていると、いっぺんに精が抜けてしまい、他吉はベンゲットのはげしい労働がかえってなつかしく、人間はからだを責めて働かな、骨がぶらぶらしてしまうという想いが、背中の青龍へじりじり来て、いたたまれず、むやみに赤いところを多くして、あっと顔をしかめるような辛い七味を竹筒に入れていたが、間もなく七味屋を廃してしまった。
「あんた、またヘリピンへ行く積りとちがうか」
 お鶴は気が気でなかったが、さすがに帰った早々、二人を見捨てて日本を離れることも出来ず、神戸で三月いた間にためて置いた金をはたいて、人力車の古手を一台購い、残ったからだ一つを資本に、長袖の法被《はっぴ》のかわりに年中マニラ麻の白い背広の上着を羽織った異様な風態で俥をひいて出て「ベンゲットの他吉」の綽名はここでも似合った。
 二年経った夏、お鶴は冷え込みで死んだ。
 他吉の留守中、まる四年夜店出しをしていた間にぬれた夜露が女の身にさわったのかと、博覧会も見ず、二階つき電車がどこを走っているかも知らなかったということもなにか不憫で、他吉は男泣いたが、死んで行くお鶴はその愚痴はいわず、ただ、
「初枝の身がかたづくまで、あんたもベンゲットの他あやんや言われて、ええ気になって、売り出したり、うかうかよその国へ行ってしまわんようにしなはれや。大体、あんたは昔からおっちょこちょいやさかい、気イつけて、阿呆な真似をしなはんなや」
 西日のかんかん射し込む奥の四畳半に敷いた床の上で、蚊細い声の意見をして、息絶えた。
 夏になると、しきりに比律賓への郷愁にかり立てられる他吉の腹の虫を、お鶴は見抜いていたのだろうか。
 お鶴の死に足止めされて、八年が経った。
 一日何里俥をひいて走っても、狭い大阪の町を出ることは出来ないと、築港へ客を送るたび、銅羅の音に胸をどきどきさせているうちに、もう娘の初枝は二十一歳であった。
 節分の日、もうその歳ではいくらか気がさす桃割れに結って、源聖寺坂の上を、初枝が近所の桶屋の職人の新太郎というのと、肩を並べて歩いている姿を、他吉は見つけた。
 すぐ寺の境内に連れ込み、新太郎の横面を殴りつけた勢いで、初枝の顔にも手が行ったが、折角の髪をつぶしてはと、この方はさすがに力を抜いて、他吉の眼がさきに火が出るくらい、情けなかった。
 こんな不仕鱈《ふしだら》な女をひとり放って置いて、比律賓へ行ってしまえば、どうなっていたことかと、他吉はひやっとしたが、間もなく行われた町内のマラソン競争で桶屋の新太郎は一等をとった。
 新太郎は少年団の世話役で、毎夜子供たちを集めて、生国魂《いくだま》神社の裏の空地でラッパを教え、彼の吹くラッパの音は十町響いて、銭湯で冬も水を十杯あびるのは、他吉のほかは町内で新太郎ただひとりであった。なお、銭湯の帰り、うどん屋でラムネ一杯のまず、存外律儀者であった。
 マラソン競争のあった翌日、他吉はれいの上着のポケットに、季節はずれの扇子を入れて、桶屋の主人を訪れ、
「早速やが……」
 と、新太郎を初枝の婿にする話を交渉した。
「さあ、わいには異存はないけど、新太郎の奴がどない言いよりまっしゃろか」
 桶屋の主人が言うと、
「どないも、こないも、あんた、おまはんやわいの知らん間にあいつらもうちゃんと好いた同志になっとりまんねんぜ。阿呆らしい。ほんまに、こんな、じゃらじゃらした話おまっかいな」
 他吉はぷりぷりしたが、しかし、新太郎の身体の良いところを見込んでの話だと、万更でも無い顔つきだった。
 新太郎の年期ももうとっくに済んでいたので、話はすぐ纒った。
 やがて、新太郎は玉造で桶屋を開業したが見込んだ通り、働き者で、夫婦仲のよいのは勿論である。
 他吉はやれやれと思い、河童路地《がたろろじ》の朝夕急にそわそわしだした。
 が、新太郎が開業する時に借りた金は、未だすっかり済んでいない。比律賓へ行くのはもうすこしの辛抱だと、じっと腹の虫を圧えている内、新太郎の家の隣りから火が出て、開業早々丸焼けになった。
 焼け出されて、新太郎は一時河童路地の他吉の家へうつって来たが、げっそりして、頭から蒲団をかぶって、まるで暖簾に凭れて麩噛んだような精のない顔をしていた。
 もう一度、立ち直って、桶屋をはじめる気もないらしく、また、職を探しに歩こうともしなかった。
 ぶつぶつ何やら呟いているのを聴けば、開業資金に借りた金の残額を、おろおろ勘定しているのだった。
「阿呆んだらめ!」
 他吉は叱りつけて、
「家の中でごろごろして借金がかえせる思てるのか。いったい、これからどないする気や。もちっと、はんなりしなはれ」
「さあ、どないしたらええやろ。もう、こうなったら、冷やし飴でも売りに歩かな、仕様《しよ》おまへんな。ほんまに、えらい災難や」
 心
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