はさっさと帰ってしまった。
 持子は泣いておたかに迫った。
 おたかもはじめて事態を悟り、仲人を追いかえしたことを後悔した。
 そこで、改めて敬助が先方の男に会うた。
 ところが、職人気質のその男は、折角仲人に頼んだ友達の顔に泥を塗られたと言って、かんかんになって怒っていた。
「なるほど、わたいは鋳物の職人です。しかし、お宅もやはり人の頭を刈る職人でっしゃろ。五分々々ですがな。それに、わたいはあのひとのお腹にいる子供の父親でっせ」
 敬助は帰って、おたかに、仲人になった男に謝るようにと頼んだ。
「この歳になって、人様《ひとさん》に頭下げるのは、いやだっせ」
 おたかはなかなか承知しなかった。
「そんなこと言うてる場合と場合がちがうがな。持子のお腹のこと考えてみイな」
 口酸っぱく言われて、それでは謝ってみましょうと、おたかの腹がやっときまりかけた時に、幸か不幸か、持子の相手の男が盲腸をわずらって、ころっと死んでしまった。
 おたかの髪の毛は真っ白になった。持子のお腹は目立って来る。
 朝日軒一家は田辺の方へ引き越した。
「こんどのところは、郊外でんねん。家の前に川が流れていて、ほん景の良えとこでっせ。郊外住いもそう悪いことおまへんさかいな」
 郊外という言葉がおたかの虚栄をわずかに満足させたのだった。
 敬吉は田辺へ移ったのを機会に理髪業をよした。家へ人が出入りするのを避けるつもりもあったかも知れない。
 そして、今では理髪店用の化粧品のブローカーをしているということだった。
「柳吉つぁん[#底本では「柳吉っあん」となっている]の口添えだんねん」
 と、得意そうに種吉は君枝に語った。柳吉の実家は理髪用化粧品の問屋だったことを君枝は想いだし、わざわざ朝日軒のことを自分に言いだした種吉の気持が、微笑ましく判った。
 君枝は次郎と別れて河童路地へ戻って来ても、存外悲しい顔は見せず、この半年の間に他吉がためていた汚れ物を洗濯したり、羅宇しかえ屋の婆さんに手伝ってもらって、蒲団を縫いなおしたりした。
 ひとり者の〆団治の家の掃除もしてやり、そんな時、君枝は、
「――ここは地獄の三丁目、往きは良い良い、帰りは怖い」
 などと、鼻歌をうたった。そして、水道端では、
「うち到頭出戻りや」
 と、自分から言いだして、けろりとした顔をしていたので、ひとびとは驚いたが、しかし、そうして路地へ連れ戻して置けば、次郎はもうあとの心配もなく、かつ発奮して再び潜りだすだろうという他吉の単純な考えを、君枝もまた持たぬわけではなかったのだ。もちろん、次郎が潜りだせば、他吉の気も折れて、もと通り一緒に暮せるだろうとの呑気な気持で、今のうちに祖父に孝行して置こうとせっせと働いていたのだった。
 ところが、ある日、蝶子がひょっくり河童路地へ顔を見せて、君枝を掴えて言うのには、
「あんた、ぼやぼやしてたら、あかんしイ」
「いったい何やの?」
「何やのて、ほんまに、えらいこっちゃ。あんたとこの人が、昨夜《ゆんべ》うちの店へ来て、散財しやはってん」
「えッ?」
 君枝は驚いた。次郎は酒は潜水病のもとだと言って、これまで一滴も飲まなかったのに、いつの間に飲むようになったのかと、本当には出来なかった。
「うちかて商売やさかい、お酒を出さんわけにはいかへんし、といって、あんたの旦那はんにあんまり散財させるわけにいかへんし、ほんまに困ったわ。因果な商売してしもたもんや」
 謝るように蝶子は言った。
「いいえ、そんなこと。ほんまに心配かけてしもて」
 君枝がそう言うと、蝶子はさてといった顔になって、
「しかし、あんたも気イつけんとあかんし。うちとこの主人《おっさん》もこの頃だいぶ考えが変って真面目になって来たさかい、飲ますだけ飲ましてから、あんたとこの旦那はんを二階へあげて、意見するつもりでだんだん訊いてみると、やっぱり酒飲みはるのも無理はないわな」
 潜水夫をやめて他の職に就くつもりで、あちこちと職を探して歩いたところが、なかなか見当らず、といって、意地からでももとの潜水夫に戻るわけにはいかず、おまけに君枝には去られている。当然気を腐らして、酒を飲むようになったのだという。
「――何よりも他あやんがあんたを連れ戻したことを、だいぶ根に持ってはるらしかった。うちの主人《おっさん》も言うてたが、やっぱり男は女房に去られるほど、淋しいもんは、ないらしい。ここを、君ちゃん、よう噛み分けて考えなああきまへんぜ」
「そんなら、潜る気はちょっともおまへんねんな」
 君枝はすっかり当てが外れた想いで、蒼い溜息をついた。
「そういう気は持ったはれへんやろな。わての考えでは、あんたがこっちへ帰ったはる限り、意地からでも潜りはれへんと思うな」
 蝶子は苦労人らしく、しみじみした口調で言った。
「――まあこのまま放って置いたら、ますます道楽しやはる一方や。やっぱり、あんたが帰ってあげんと……」
 日が暮れて、蝶子は粉雪をかぶりながら帰って行った。
 君枝は帯の間に手を差し入れて、暫らく考えこんでいたが、やがて路地を出て行くと、足は市電の停留所へ向いた。
 電車が大正橋を過ぎる頃、しとしと牡丹雪になった。
 境川で乗り換えて、市岡四丁目で降りた。そこから三丁の道はもう薄白かった。傘を持って出なかったので、眉毛まで濡れたが、心は次郎なつかしさに熱く燃えていた。
 ところが、鍵が掛っていた。合鍵をもっていたので、あけて中にはいった。手さぐりで燈りをつけ、見渡すと、火の気ひとつなく、寒むざむとしていた。
 火をおこし、火鉢の傍で何時間か待ったが、次郎は戻って来なかった。この雪の晩にどこを飲み歩いているのかと、君枝は身動きひとつしなかった。
 犬の遠吼えがきこえた。
 だんだん夜が更けて来た。
 炬燵に炭団を入れていると、荒あらしく戸を敲く音がした。
 玄関へ出て見ると、見知らぬ人が立っていて、お宅の主人がトラックにはね飛ばされて、大野病院へはいっているという知らせだった。君枝は立ったまま、ぺたりと尻餅ついた。

     8

 命は助かったが、退院までには三月は掛るだろうという大怪我だった。
「あんぽんたん奴! 働きもせんとぶらぶら飲み歩いてるような根性やさかい、ぼやぼやして怪我もするネや」
 他吉は知らせをきいて言ったが、しかしさすがに怒った顔も見せられず、毎日病院を見舞った。
 君枝はもちろん三等病室で寝泊りし、眠れぬ夜は五日も続いたが、二週間ばかりするといくらか手が離せるようになった。
 その代り、病院の払いに追われだした。もともとはいるだけ使ってしまうという潜水夫の習慣で、たいした蓄えもなく、そのわずかの蓄えも遊んでいるうちに、すっかり使っていた。
 頼りにする鶴富組の主人は△△沖の方へ出張していたし、おまけに、次郎をひいたトラックの運転手は、よりによって夫の死後女手ひとつで子供を養っているという四十女で、そうと聴けば見舞金も受けとれなかった。
「貴女《おうち》が悪いんのんとちがいま。うちの人がなんし水の中ばっかしで暮して来やはったんで、陸の上を歩くのが下手糞だしたさかい、おまけに雪降りの道でっしゃろ?」
 無理に笑って、見舞金を突きかえした。
 女運転手は恐縮して、毎日見舞いに来た。
「そない毎日来て貰たら、恐縮《きずつの》おます。貴女《おうち》も、お忙しいでっしゃろさかい……」
 言うているうちに、君枝はふと、自分も看病の合間に運送屋の手伝いをして見ようかと思った。
 河童路地の近くに、便利屋というちっぽけな運送配達屋がある。引越し道具のほか、家具屋、表具屋、仏壇屋などから持ちこまれる品物の配達をしているのだが、小型トラックがなくなった上に近頃は手不足で折角の依頼を断ることが多いと聴いていたので、君枝は早速掛け合ってみた。
「へえ、あんたみたいな別嬪さんが……?」
 便利屋の主人は驚ろいたが、配達の手伝いなら、時間に縛られることが無いので、看病の合間に出来るし、足には自信があると案外君枝が本気らしかったので、
「そんなら自転車に乗ってくれまっか」
 手当てはもとよりたいしたことは無く背を焼かれるような病院の払いには焼石に水だったが、けれど全くはいらぬよりはましだと、君枝は早速自転車の稽古をはじめた。ひとつには、そうして人手不足の際に働くということが、入院して働けぬ次郎の代りをつとめることにもなろうという気持もあった。
 ところが、ハンドルを握ったとたんに、もう君枝は尻餅をついて、便利屋の前はたちまち人だかりがした。
 君枝は鼻の上に汗をためて、しきりに下唇を突きだして跨り、跨り、漸くのことで動きだすと、
「退《ど》いとくれやっしゃ。衝突しまっせ。危のおまっせ」
 と、金切声で叫び、そして転んで、あはははと笑った。
 亭主が怪我をして入院しているというのに、この明るさはどこから来ているのかと、便利屋の主人はあきれた。
 翌日から君枝は、病院へ便利屋の電話が掛ると、いそいそと出掛け、リヤカーをつけて配達にまわった。
 ある日、仏壇を積んで、南河内の萩原天神まで行った。
 堺の三国を過ぎると、二里の登り道で、朝九時に大阪を出たのに、昼の一時を過ぎても、まだ中百舌鳥《なかもず》であった。
 里子にやられていた幼い頃のことを想いだしながら、木蔭[#「木蔭」は底本では「本蔭」と誤記]で弁当をひらいていると、雨がぱらぱらと来て、急に土砂降りになった。
 合羽を仏壇にかぶせ、自身は濡れ鼠になりながらペタルを踏み、やっと目的地について、仏壇を届けて帰る道もなお降っていたが、それでもへこたれようとしなかったのは、子供の頃からさまざまな苦労に堪えて来た故であろうか。
 大阪に帰ると、日が暮れた。男なら一服というところを、その足で千日前の自安寺へお詣りした。
 水掛け地蔵の身体をたわしで洗っていると、
「お君ちゃん」
 声を掛けられた。
 もとの朝日軒のおたかが、定枝、久枝、持子の三人の娘を連れて来ていたのだった。
 持子は赤ん坊を抱いていた。
「あら、赤子《やあさん》出来はりましたの?」
 君枝が言うと、おたかは相好くずして、
「見たっとくなはれ」
 いかにも嬉しそうだった。
「――この子が出来てから言うもんは、あんた、娘どもが皆この子を奪いあいして、そら賑やかなことですわ」
 もう四十を過ぎた定枝や久枝がめずらしそうに毎日赤ん坊の奪り合いをしている容子が、眼に見えるようであった。
「肝腎の私《うち》に一寸も抱かしてくれはれしめへんねん」
 持子の声は明るかった。
「そない言うたかて、あんたは乳のます時はいつでも抱けるさかい……。なあ久ちゃん」
 定枝は清潔に澄んだ美しい眼をくるくる動かせて、言った。
「いつもこの通りでんねん。今日かて、あんた、この子の虫封じのお守り貰いに来るのに、一家総出の大騒ぎでんねん」
 おたかのその言葉をきいていると、君枝は思いがけぬ持子の不幸が、かえって一家を明るくしているにちがいないと思った。
「ちょっとうちにも抱かしとくなはれ」
 赤ん坊を抱かせてもらった。
「――良う肥えたはりまんな」
「へえ、そらもう、郊外で空気はよろしおまっさかい」
 おたかは言った。
 別れて、病院へ戻ると、夜、君枝は次郎の寝台の傍で産衣を縫うた。七ヵ月さきに生れるとの産婆の言葉だった。
 次郎は見て眼が熱くなり、
「ああ、魔がさしてた。潜水夫やめよう思たんは、あれは気の迷いやった。怪我した足が泣いとる。元の身体になったら、はよ潜れ言うて、泣いとる」
 ひとりごとのように言い、そして、しみじみと、
「――お前にも苦労させるなあ。済まんなあ」
 と、手を合わさんばかりにした。
「阿呆らしい。水臭いこと言いなはんな」
 君枝はいつもの口調で言い、そしてこくりこくり居眠りをした。
 他吉はそんな風に君枝が働きだしたのを見て、貧乏人の子はやっぱり違うと喜び、
「せえだい働きや」
 と、言い言いして、さもありなんという顔でうなずいていたが、それから半月ばかり経ったある日、ふと君枝がおしめを縫うているのを見
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