が〆団治といっしょに帰ろうとすると、次郎と君枝は引き止めて、
「お祖父やん、今日は家で泊ってくれはれしまへんのんか?」
「当り前やないか」
 他吉に代って、〆団治が答えた。
「――若夫婦のところへ、こんな老いぼれの他あやんが居てみイ。陰気臭いやら邪魔ややら」
 〆団治は口が悪かったが、他吉は今夜は怒らなかった。ふん、ふんと上機嫌にうなずいている。
「まあ、いやな〆さん」
 白粉の奥が火を吹いた。次郎もちょっと照れたが、
「ちょっともそんな遠慮要らへん。今夜は泊ってくれはるやろ思て、ちゃんと寝床《ねま》もとっといたのに……もう、帰りの電車もあれしまへんやろ」
「無かったら、歩いてかえる」
「ここから河童路地まで何里ある思てんのん? お祖父ちゃん、〆さんにひとり帰ってもらうのん気の毒やったら、あとさし[#「あとさし」に傍点、底本では「あとさ」に傍点]ででも一緒に寝て貰たらええがな……」
「いや、帰る。何里あろうが、俥ひいて走るよりは楽や。なあ、〆さん。退屈したら、お前の下手な落語でもきかせて貰いながら歩くわな」
「どついたろか、いっぺん」
 〆団治は他吉の頭の上で、拳をかためて見せた。
 次郎は笑って、
「それなら、今夜はまあ、気を利かせて貰うことにして、明日からずっとこの家へ来てもらいまっせ。もうそろそろお祖父やんにも隠居して貰わんならん、なあ、君枝」
 すると、他吉[#「他吉」は底本では「他君」と誤記]はあわてて手を振った。
「阿呆なこと言いな。わいはまだまだ隠居する歳やあれへん。此間《こないだ》も言うた通り、わいは明日の日にでも発って、マニラへ行こ思てるねん。君枝の身体ももうちゃんとかたづいたし、思い残すところはない。ベンゲットの他あやんも到頭本望とげて、マニラで死ねるぞ」
 振った手を握りしめると、痛々しく静脈が浮き上った。それをちらと眼に入れて、次郎は、
「何言うたはりまんねん。そらお祖父やんがマニラへ行きたい気イはわかるけど、その歳でひとりマニラまで行けるもんですか? なあ、〆さん」
「当りきや」
「それに、お祖父やん、昔とちごて、こんな時局になったら、日本人がおいそれとたやすく比律賓へ渡れますかいな。移民法もなかなかむつかしいし……」
「ベンゲットの他あやんが比律賓へ行けんいう法があるかい」
「あるかい言うたかて、法律がそうなってるんやから、仕方ない。嘘や思たらその筋へ行ってきいて見なはれ」
「そやろか?」
 他吉はがっかりした顔だった。
「それに、よしんば行けたとしても、いま、お祖父やんに行かれてしもたら、淋しゅうて仕様ない。なあ〆さん」
「そやとも、他あやん、お前が行かんでもマニラは治まる。お前が行てしもて見イ、わいはひとりも友達が無いようになるがな」
 〆団治にも言われると、
「それもそやなあ」
 と、他吉は精のない声をだした。
「――お前ら寄ってたかって巧いこと言いくさって、到頭マニラへ行けんようにしてしまいやがった。しかし、言うとくけど、これは今だけの話やぜ。行ける時が来たら、誰が何ちゅうてもイの一番に飛んで行くさかい、その積りで居ってや」
 これが僅かに他吉の心を慰めた。
「宜しおますとも、その時はその時の話、とにかくようマニラ行き諦めてくれはりましたな」
 君枝は次郎と他吉の顔をかわるがわる見ながら、
「――そんなら、今も言うた通り、明日からこの家へ来とくなはれや。荷物はうちが便利屋に頼んで、持って来てもらいまっさかい」
 そう言うと、他吉は、
「お前までわいに隠居せえ言うのんか。なんの因果でわいが河童路地を夜逃げせんならん」
 いつにない強い口調だった。
「そうかて、うちが結婚したら、隠居する、三人で一緒に住むいう約束やったやないか、お祖父ちゃんにまだ河童路地に居てもらうくらいやったら……」
 結婚するんじゃなかったと言い掛けて、君枝は次郎の顔を見てはっとした。
 次郎[#「次郎」は底本では「欠郎」と誤記]の顔は蒼ざめていた。その顔を横向けたまま、次郎はふるえる声で言った。
「そら、そやろ。河童路地からこんな汚い家へ来るのは、恥かしいやろ。夜逃げ同然でなけりゃ、来られんやろ。そんな気イやったら、なにも来てもらへんでも宜しい」
 次郎はかっとなる性質だった。
「――どうせ僕は甲斐性なしです。気に入らんかったら、君枝を連れて帰ってもらいましょう」
 次郎は本当に他吉が好きで、一緒に住みたかったのだが、ひとつには、他吉を引き取るくらいの甲斐性者になったことを、皆んなに見てほしかったのである。だから、〆団治の前で、それを他吉に断られたのが、心外だったのだ。〆団治がその場に居らなかったら、次郎はこうまで腹が立たなかったであろう。
「なにッ? もういっぺん言ってみイ」
「ベンゲットの他あやん」の声が久し振りに出た。
「――わいがお前らの厄介にならん言うのを、そんな風にとってたんか、阿呆!」
 雲行きが怪しくなったので、〆団治はあわてて、
「まあ、まあ」
 と、仲にはいり、自分でも何を言っているか判らなかったが、とにかく喋りまくって、その場の空気を柔らげた。
「婚礼の晩にむつかしい顔してにらみ合うてる奴があるかい。さあ、笑い、こんな顔しイ」
 〆団治が自分でニコニコした顔をつくって見せると、漸く他吉、次郎の順に固い表情がとれた。
 〆団治に促されて他吉があとに随いて外へ出ると、月夜だった。
 秋の冷え冷えした空気がしみじみと肌に触れた。
「他あやん、おまはんいったい幾つやねん?」
 〆団治が言った。
「五や」
「六十五にもなって、若い者相手に喧嘩する奴があるかいな。しかし、また、なんぜお前はそう頑固にあの二人の厄介になるのを断るねん。君ちゃんかて今孝行せなする時がない思て、やきもきしてるにきまってるぜ」
「孝行してもらうために、育てて来たんとちがう」
 他吉はぼそんと言った。
「なるほど、お前が厄介になって、君ちゃんに気兼ねさしたら、可哀想や言うわけやな」
「それもあるけど……」
 あと他吉は答えなかった。
 翌日、雨だった。
 雨の町を他吉は俥をひいて、ひょこひょこ走っていた。

     7

 半年経つと、安治川での仕事が一段落ついたので、鶴富組の主人はかねて計画していた△△沖の沈没船引揚げ事業に取り掛ることになった。
 そして、新婚早々大阪を離れるのはいやだろうがと、次郎に現場への出張を頼むと、君枝との結婚の際親代りになって貰った手前もあって、当然よろこんで行くべきところを、次郎は渋った。
「あそこはたしかに五十尋はありましたね。今までなら身寄りの者はなし、喜んで潜らして貰ったんですが、どうも女房を貰っちまうと、五十尋の海はちょっと……」
 △△沖の沈没船引揚げ作業は、前にもあるサルベージが手をつけて、失敗したことがあったので、次郎はそれを聴き知っていた。
「そりゃ、なるほど危険なことは危険だが……」
 と、鶴富組の主人は言った。
「――危険は危険だが、それだけにまた、やり甲斐はあらアね。それに、君、説教するようだけど、もう今日じゃ、引揚げ事業ってやつは、一鶴富組の金儲けじゃないんだからね。女房も可愛いだろうが、そこをひとつ……」
「そう言われると辛いんです。おっしゃられるまでもなく、引揚げって奴は国家的な仕事だってことは、よう判っています。判ってはいるんですが……」
「やっぱり女房は可愛いかね」
「いや、女房だけじゃ良いんですが、祖父さんのことを考えると、うっかり……。そりゃ、あの祖父さんのことですから、僕が死んでも立派にやって行ってくれるでしょうけど、しかし、あの祖父さんもこれまでに一度婿を死なしていますから……」
 と、次郎はこれを半分自分への口実にしていた。
 実は次郎は近頃潜水夫の仕事が、怖いというより、むしろ嫌になって来ているのだった。
 つい最近、桜橋の交叉点でむかし品川の写真機店で一緒に奉公していた男に出会った。立ち話にきくと、今では堺筋に相当な写真機店を出しているということだった。
「君もあの時辛抱してりゃ良かったのに」
 言われて、それもそうだなと思ったその気持が、相当強く働いて、一生その日稼ぎの潜水夫で終ることが情けなく思われたのである。
 人間は身体を責めて働かなあかんという他吉の訓《おし》えを忘れたわけではなかったが、どれだけ口を酸っぱく薦めても、いまだに隠居しようとせず、よちよち俥をひいて走っている他吉を見ると、それもなにか意固地な病癖みたいに思えて、自分はやはり呑気な商売をと、次郎は考えだしていたのだった。
 他吉は国際情勢が自分のマニラ行きを許さぬと判ってから、大きな声も出せぬくらい腑抜けていた。ひとつには、君枝をかたづけたという安心からであった。他吉の眼からは、次郎は働き者で、申し分ない婿に見えていたのだった。
 ところが、次郎が鶴富組の主人の依頼を断ったことを聴きつけると、他吉は二十も若がえった。
 他吉は血相かえて次郎の家へ飛んで来て、
「潜水夫が嫌になったとは、何ちゅう情けない奴ちゃ。鶴富組の御主人も言うたはったが、今に日本がアメリカやイギリスと戦《や》ってみイ。敵の沈没船を引揚げるのに、お前らの身体はなんぼあっても足らへんネやぞ。五十尋たらの海が怖うてどないする? ベンゲットでわいが毎日どんな危い目エに会うてたか、いっぺん良う考えてみイ。お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]生きてたら、蝙蝠傘でど頭《たま》はり飛ばされるとこやぞ」
 と、呶鳴りつけ、
「――わいらのことは心配すんな。お前にもしものことがあっても、君枝はわいが引き受けた。わいが死んだあとは、君枝が立派に後家を守って行く。そういう風にわいは君枝を育てて来たアる筈や。心配はいらんぜ。お前がそういう心配をしたら、どんならんと思えばこそ、わいはお前らの厄介にならんと、ひとりでやって行こ思て……」
 今なお俥をひいている此の俺を見ろと、他吉はくどくど言ったが、次郎は父親似の頑固者だった。
 口で言うても分らぬ奴だと、しかし、他吉はさすがに孫娘の婿に手を掛けるようなことはせず、その代りなに思ったか、君枝を河童路地へ連れ戻した。
 あっという間のことだったから、次郎は腹を立てたり、まあ待ってくれと言う余裕もなく、あっけに取られてしまった。君枝はそういう他吉の流儀に馴れていた。
 君枝の婚礼の時、朝日軒のおたかは例によって頭痛を起して三日寝こんだ。だから、君枝が河童路地へ戻って来たのを、それみたことかと人一倍喜ぶのは普通ならおたかをおいてほかになかったが、丁度その時には朝日軒一家はもう河童路地の入口には居なかった。居たたまれないわけがあったのだ。
 ありていに言うと、一番末の娘(といってももう三十歳だが)の持子が、姙娠したのだ。いってみれば、姉たちをさし置いて姙娠したのだ。
 弁士の玉堂がきいたら悲観するところだったろうが、彼は七年前に河童路地を夜逃げしていた。トーキーが出来てから、弁士では食って行けず、暫らく紙芝居などやっていたが、それもすたれて、貧乏たらしくごろごろしていたが、ある日忽然と河童路地から姿を消したのだった。最近、梅田附近の露店で手品の玩具を売っているのを見た者があるという。
 姙娠と同時に縁談があった。勿論、相手の男だったが、仲人をいれず、自身でしゃあしゃあ出向いて来て、持子さんをいただけないかと言ったのである。
「物には順序というもんがおます」
 おたかはかんかんになって怒った。今更順序など言いだすのはおかしい。はじめから、順序が狂い過ぎていたのである。
 その男はしかし、一寸考えて、やがて友達を仲人に仕立てて、寄越した。
 ところが、その友達というのが、その男と同じ鋳物の職工で、礼儀作法なぞ何ひとつ知らぬ、いわば柄の良くない男であった。
「うちの持子は女学校を出ていますさかいな」
 おたかはそんな風に言った。その界隈で大正時代に娘を女学校へやった家は数えるほどしかなかったのである。
「――鋳物の手伝いをさせるために、女学校へやったんとちがいます」
「さよか」
 仲人
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