て、ああ知らなんだと、にわかに涙を落した。
 そして、腹巻きの中から郵便局の通帳を出して来て、言うのには、
「今までこれを何べん出そ、出そ思たか判らへんかったけど、いや待て、今出してしもて、二人の気がゆるむようなことがあったら、どむならん、死金になってしまう――こない思て、君枝の苦労を見て見ぬ振りして来たんやけど、思たらほんまにわいは、ど阿呆[#「ど阿呆」に傍点]やった。君枝に子《ややこ》が出来てるいうこと、さっぱり知らんかったんや。堪忍してや。むごいお祖父やんや思わんといてや。そうと知ったら、君枝を自転車に乗せるんやなかったんや。あんなえらい仕事をしてるのを、黙って見てるネやなかったんや。よう辛抱してくれたな」
 他吉ははや啜りあげたが、やがて、かさかさした掌で涙を拭くと、
「――ここに八百円あるねん。この金ここぞという時の用意に、いや、君枝の将来を見届けた暁に、死んだ婿の墓へ詣りがてら一ぺんマニラへ行って来たろ思て、その旅費に残して置いたんやが、もうこうなったら今が出し時や。この金で病院の払いをして、残った分を君枝のお産と、次郎ぼんの養生の費用《いりよう》にしてくれ」
「いや、そんなことをして貰たら困る。それはお祖父ちゃんの葬式金に残しといて」
 次郎が手を振ると、
「げん糞のわるいことを言うな。葬式金を残すようなベンゲットの他あやんや思てるのか」
 他吉は眼をむいた。
「そんなら、マニラ行きの旅費に……」
「知らん土地やなし、旅費はのうても、いざという時になったら、泳いででも行くわいな」
 歯の抜けた顔で笑ったが、他吉はすぐしんみりして、
「――それにこの金の中には、君枝が下足番をして貰た金もはいってるんや。遠慮する金やあれへんぜ」
 他吉はついぞ見せたことのない涙を、ぽたりぽたり落した。

     9

 次郎はやがて退院した。そして、君枝のお産が済む頃には、すっかり元の身体になっていた。生れた子は男の子で、勉吉と名をつけると、
「ベンゲットのベン吉やな」
 と、他吉は悦に入った。
 鶴富組の沈没船引揚げ作業はまだ了っていなかった。
 次郎が電報をうつと、スグコイマッテイルとの返事だったので、喜んで行こうとすると、君枝はもじもじしながら、
「うちも一しょに行くわ。潜水船の喞筒《ポンプ》押しに」
 と、言った。
 次郎は驚いた。喞筒押しは、浅い底の土木工事などでは、女人夫三人ぐらいで行われるが、十尋二十尋ではもう女の力に余って、六人から八人もの男の力を借らねばならない俗に「喞筒押し一升飯」といわれるほどの労働なのだ。
「女にはとても出来んよ」
 そう言うと、君枝は、
「うち今まで毎日お祖父ちゃんの俥のタイヤに空気入れてたさかい、喞筒押しするのん上手やし。こない言うて、なんやこう、あんたに離れるのがいやで言うみたいやけど……」
 ぽっと赧くなった。
 そんな君枝が次郎にはたまらなく可愛かった。
「そんなら一しょに行ってもらほか。喞筒押しでなくても、ホース持ちなら出来るやろ」
 ホース持ちは、空気の過不足の合図を受ける大切な役目で、昔は潜水夫の妻がこれをしていたのである。
 鶴富組の主人は腕利きの潜水夫が無くて弱っていたところだったので、次郎と君枝が現場へ現われると、
「よく気が変ってくれたもんだね」
 と、喜んだ。次郎は、
「人間はたまに怪我もして見んならんもんですよ」
 と、笑って、五十尋の深海へ潜った。
 君枝がホースを持っているのだと思えば、次郎はもうどんな危険もいとわぬ気がして、そして、マニラで死んだという君枝の父親の気持が、ふっと波のように潜水服に当って来るのだった。
 こうして潜っている間にも、祖父さんはよちよち俥を走らせているのだと、静脈の痛々しく盛り上った他吉の手足が泛び、次郎は、自分ももし、君枝の父親と同じように、祖父さんからマニラへ行けといわれたら、もう断り切れぬだろうと思った。
 沈船作業が済んで、大阪へ帰って来ると、間もなくその年も慌しく押し詰り、大東亜戦争がはじまった。
 そして、皇軍が比律賓のリンガエン湾附近に上陸した――と、新聞は読めなかったが、ラジオのニュースは他吉の耳にもはいった。
「ああ、今まで生きてた甲斐があったわい。孫も立派にやってる。曾孫も丈夫に育ってる、もう想い残すことはない。わいの死骸はマニラの婿といっしょの墓にはいるネや」
 と、他吉は大声で叫びながら、府庁へ駈けつけ、実は自分は「ベンゲットの他あやん」という者で、ベンゲット道路の道案内をする者は自分以外にはない。リンガエン湾附近に上陸した皇軍は恐らくベンゲット道路を通ってマニラへ向うと思うが、自分はあのジグザグ道のどこに凸凹があり、どこの曲り角が向うの崖から丸見えかを知っているのだ、バギオにはアメリカの兵舎があり、うっかりベンゲットを通ると危い、どうぞ自分を道案内にしてくれと、頼みこんだ。
「早いことせな間に合えしまへん。早いとこ飛行機に乗せとくなはれ」
「爺さん、いったい幾つやねん」
 係員は他吉の歳をきいて、もう相手にしなかった。
 すると、他吉はいきなり凄んで、
「お前らでは判らん。話の判るのを出せ。知事は居るのんか、居れへんのんか」
 と、「ベンゲットの他あやん」の姿勢になったが、途端にくらくらと目まいがして、ああこないしている間にもベンゲット道路のあの曲り角をタンクが通る、婿の新太郎の墓は、船に積んだらどこまで行きゃアる、歯抜きの辰に二円かえしといてくれ、マニラはわいの町や、一つには、光り輝く日本国、マニラ国へとおもむいた――他吉はあっと声も立てずに卒倒した。
 医者はもう助からぬと言ったが、次郎と君枝の輸血が効いたのか、他吉はじりじりと生き延びた。
 そんなねばり強さはどこから来たのだろうか。
 執拗に保《も》って二月目のある日、〆団治が次郎の家で臥ている他吉を見舞いに来た。
 ところが、〆団治はついぞ着ぬ洋服を着たのは良いとして、まだまだ寒さが去らぬのに、異様な半ズボンでぶるぶる震えていた。
「〆さん、頭のゼンマイ狂たんと違うか」
 君枝はさすがに看病疲れもなく、こんな訊き方をすると、〆団治は、
「さにあらず。実はやな、わいも○○興業の落語の慰問隊たらいうもんに加わって、南方へ行くことになってん。南は暑いと聴いたさかい、今からこの服装や」
 と、言い、水洟をすすりながら、
「わいの落語も南なら受けるやろ」
 嬉しそうに言った。
「お前みたいな老いぼれのあんぽんたんでも、南方へ行けるのんか」
 他吉は聴いて口惜しがり、
「――どうせマニラも陥落したこっちゃし、マニラへも行くんやろ。うまいことしやがんな」
「一足さきに、えらい済まんなあ」
「何がさきや。わいは飛行機で行くさかい、お前の乗ってる船追い抜いて、お前より早よ着くわい。マニラへ着いたら、他あやんが出迎えに来てへんか、眼のやにを拭いて、しっかり見んとあかんぜ。――ところで、何日出発や」
「明後日《あさって》や」
 〆団治が答えると、君枝は、
「えらいまた急やなあ。お祖父ちゃんが元気やったら、駅まで俥に乗せて、見送ってもろたげるのに……」
 と、言った。
「いや、おおけに。そうなったら、わいも一生一代の人力で、えらい晴れがましいとこやけど、他あやんなんぜまたこんな時に病気したんやねん。わいの師匠の初代春団治ちゅう人は朱塗りの人力で寄席をまわって、えらい豪勢やったけど、わいはこの歳になるまで、エレヴェーターには乗ったけど、人力いうもんには、到頭いっぺんも乗らずじまいやった」
「その代り、お前の落語も日本じゃ一ぺんも受けずじまいやったな」
 病気で衰弱していても、他吉は〆団治に向うと、相変らず口が悪かった。
「その代り、向うでは受けるわいな。なんし競争相手が無いさかいな。それにわいの黒い顔は丁度南向きや」
「南向きやて、なんやこう、貸家探してるみたいや」
 君枝は笑った。が、他吉の痛々しく痩せ衰えた顔を見ると、すぐ笑いやんだ。
「向うへ行ったらな、イの一番に南十字星見てこましたろ思てるねん」
 と、〆団治は言った。
「――もう、南十字星てどの方角に出てる星やねんちゅうような、ぼけた[#「ぼけた」に傍点]ことは言わへんぞ。実はな、向うへ行て、空を見て、どれが南十字星か判らんかったら恥やさかいな、昨日うちの会社の文芸部の男に案内してもろて、四ツ橋の電気科学館へ行て、プラ、プラ、プラチナ……」
「プラネタリュウム」
 君枝は言って、赧くなった。次郎とはじめて会うた日のことを想いだしたのである。次郎は今日も築港で仕事していて留守だった。帰って来たら、〆さんがプラネタリュウムへ行ったことを話そうと、君枝はちらと思った。
「それ、それ、そのプラネタリで、南十字星言うもん見せて貰て来てん」
 〆団治が言うと、他吉の眼は輝いた。
 〆団治が帰る頃、他吉はなにを思いだしたか、
「それはそうと、〆さん、マニラへ行たらな、歯抜きの辰いう歯医者を探して昔わいが借りた二円かえしといてんか。この歯を抜いてもろた時の借金や」
 と言い、口をあけて、奥歯を見せたが、息切れして、いかにも苦しそうであった。
「よっしゃ、よっしゃ。歯抜きの辰つぁん[#底本では「辰っあん」となっている]やな」
 〆団治は言ったが、二十何年か前、婿の新太郎がマニラから寄越した手紙で歯抜きの辰はとっくに死んでいると承知している筈だのに、今はこの耄碌の仕方かと、さすがにほろりとした。
 〆団治が帰ってしまうと、他吉は急に精が抜けたようだった。

     10

 二日のち、四ツ橋電気科学館の星の劇場でプラネタリュウムの「南の空」の実演が済み、場内がぱっと明るくなって、ひとびとが退場してしまったあと、未だ隅の席にぐんなりした姿勢で残っている薄汚れた白い上衣の老人があった。
「あ、また、居眠ったはる」
 よくある例で、星空を見ながら夜と勘ちがいして居眠ってしまったのかと、係の少女が寄って行って、
「もし、もし、実演はもう済みました。もし、もし」
 揺り動かしたが、重く動かず、顔が真蒼だった。死んでいたのだ。
 四ツ橋で南十字星を見たという〆団治の話を聴いて、君枝が〆団治らの慰問隊を見送りに行った留守中に寝床を這いだして来ていたのか、それは他吉だった。
 上衣のポケットに新太郎がマニラから寄越した色あせた手紙がはいっていたので、身元はすぐ判った。
 他吉の死骸はもとの寝床に戻った。
 枕元の壁の額に入れられたマラソン競争の記念写真の中から、半分顔を出して、初枝がそれを覗いていた。
 他吉の死骸は和やかであった。
 羅宇しかえ屋の婆さんがくやみに来て、他吉の胸の上で御詠歌の鈴を鳴らし、
「他あやん、良えとこイ行きなはれや」
 と、言うと、君枝は寝床の裾につけていた顔をあげて、
「おばちゃんお祖父ちゃんは、言わんでも、もうちゃんと良えとこイ行ったはる。南十字星見ながら死にはったんやもん。見たい見たい思てはった南十字星見ながら、行きたい行きたい言うたはったマニラへ到頭行かはったんや。お祖父ちゃんの魂は〆さんより早よマニラへ着いたはりまっせ」
 と、言った。
 鈴《りん》の音が揺れた。
 次郎はふと君枝の横顔を見て、ああ、他あやんに似ていると、どきんとした咄嗟に、今度は自分たちがマニラへ行く順番だという想いが、だしぬけに胸を流れた。
 他あやんはついぞこれまで、言葉に出しては、アメリカの沈船を引揚げにマニラへ行けとは言わなんだけれど、〆団治が南方へ旅立つその日、マニラへの郷愁にかりたてられて、重い病気をおして星の劇場へ行き、南十字星を見ながら死んだのを見れば、もう理窟なしに、お前もマニラへ来いと命じられたのも同然だ、いや、君枝を娶った時からもうことは決っていたのだ。これが佐渡島他吉一家の家風だという想いが、なにか生理的に来て、昂奮した胸を張ると、壁の額の写真が眼にとまった。
 鈴の音がしきりに揺れた。
「良えとこイ行きなはれや」
 羅宇しかえ屋の婆さんは泣きながら、
「――寒い時に死んでも、他あやん、お前は今頃は暑い
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