の移民はマニラで二日休養ののち、がたがたの軽便鉄道でダグバンまで行き、そこから徒歩でベンゲットの山道へ向った。
まず牛車《カルトン》を雇って荷物を積み込み、そして道なき山を分け進んだが、もとより旅館はなく日が暮れると、ごろりと野宿して避難民めいた。
鍋釜が無いゆえ、飯は炊けず、持って来たパンはおおかた蟻に食い荒されておまけにひどい蚊だ。
そんな苦労を二晩つづけて、やっと工事の現場へたどり着いて見ると、断崖が鼻すれすれに迫り、下はもちろん谷底で、雲がかかり、時にはぐらぐらした岩を足場に作業して貰わねばならぬと言う。
ただでさえ異郷の、こんなところで働くのかと、船の中ではあらくれで通っていた連中も、あっと息をのんだが、けれど今更日本へ引きかえせない。旅費もなかった。
石に噛りついてとはこの事だと、やがて彼等は綱でからだを縛って、絶壁を下りて行った。
そして、中腹の岩に穴をうがち、爆薬を仕掛けるのだ。点火と同時に、綱をたぐって急いで攀じ登る。とたんに爆音が耳に割れて、岩石が飛び散り、もう和歌山県出身の村上音造はじめ五人が死んでいた。
間もなくの山崩れには、十三人が一度に生き埋め
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