した日本人の忍耐と努力を知っていたからであろうか。日本は清国との戦いにも勝っていた……。
領事代理の岩谷書記は神戸渡航合資会社の稲葉卯三郎をケノン少佐に推薦した。稲葉卯三郎が通訳長尾房之助を帯同、政庁を訪れると、ケノン少佐は移民法に接触してはならぬからと口頭契約で、人夫九百名、石工千名、人夫頭二十名、通訳二名、合計千九百二十二名の労働者の供給を申込んだ。
日給は道路人夫一ペソ二十五セント、石工二ペソ、人夫頭二ペソ五十セント、通訳は月給で百八十ペソと百ペソ、労働時間は十時間、食事及び宿舎は官費で病気の者は官営病院で無料治療、なおマニラ・ダグバン間の鉄道運賃は政府負担という申し分のない条件であった。
第一回の移民船香港丸が百二十五名の労働者を乗せて、マニラに入港したのは明治三十六年十月十六日であった。
股引、腹掛、脚絆に草鞋ばき、ねじ鉢巻きの者もいて、焼けだされたような薄汚い不気味な恰好で上陸した姿を見て、白人や比律賓人は何かぎょっとし、比人労働組合は同志を糾合して排斥運動をはじめ、英字新聞も日清戦争の勇士が比律賓占領に上陸したと書き立てた。
それを知ってか知らずにか、百二十五名
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