になった。
 十一月にはコレラで八人とられた。
 死体の見つかったものは、穴を掘って埋めたが、時には手間をはぶいて四五人いっしょに一つの穴へ埋めるというありさまであった。
 坊主も宣教師も居らず、線香もなく、小石を立てて墓石代りの目じるしにし、黙祷するだけという簡単な葬式であった。ひとつには、毎日の葬式をいちいち念入りにやっていては、工事をするひまが無くなるためでもあったろう。それ程ひんぱんに死人が出た。
 そんな風にだんだんに人数が減って行き、心細い日が続いたが、やがて第二回、第三回……と引き続いて移民船が来て、三十六年中には六百四十八名が、三十七年中にはほぼ千二百名がマニラへ上陸し、マニラ鉄道会社やマランガス・バタアン等の炭坑へ雇われた少数を除き、日給一ペソ二十五セントという宣伝に惹かれて殆んど全部ベンゲットへ送られて来た。内地では食事自弁で、五六十銭が精一杯だった。一ペソは一円に当る。しかも、ベンゲットでは食事、宿舎、医薬はすべて官費だということだ。
 けれど、来て見ると、宿舎というのは、竹の柱に草葺の屋根で、土間には一枚の敷物もなく、丸竹の棚を並べて、それが寝台だ。蒲団もなく、
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