》か、横堀川の上に斜めにかかった橋のたもとまで来ると、
「他吉!」
と、いきなり呼ばれ、五六人の俥夫に取り囲まれた。
「なんぞ用か?」
咄嗟に「ベンゲットの他あやん」にかえって身構えたところを、
「ようもひとの繩張りを荒しやがったな」
と、拳骨が来て、眼の前が血色に燃えた。
「何をッ!」
と、まずぱっと上着とシャツを落して、背中を見せ、
「さあ、来やがれ!』
と、振りあげた手に、握っていた玩具が自分の眼にはいらなかったら、他吉はその時足が折れるまで暴れまわったところだが、
――今ここで怪我をしては孫が……
他吉は気を失っただけで済んだ。
やがて、どれだけ経ったろうか、ベンゲットの丸竹の寝台の上に寝ている夢で眼をさますと、そこはもとの橋の上で、泡盛でも飲み過ぎたのかと、揺り起されていた。
そうして五年が経った。
間もなく小学校ゆえ君枝を自身俥に乗せて河童路地へ連れて戻ると君枝は痩せて顔色がわるく、青洟で筒っぽうの袖をこちこちにして、陰気な娘だった。
両親のないことがもう子供心にもこたえるらしく、それ故の精のなさかと、見れば不憫で、鮭を焼いて食べさせたところ、
「これ、何ちゅうお菜なら?」
と、里訛で訊くのだった。
「鮭という魚《とと》や」
「魚て何なら?」
「あッ、それでは……」
里では魚も食べさせて貰えなかったのかと、他吉はほろりとして、
「取るもんだけは、きちきち取りくさって、この子をそんな目に会わしてけつかったのか」
と、そこらあたり睨みまわす眼にもふだんの光が無かった。
君枝は茶碗の中へ顔を突っ込み、突っ込み、がつがつと食べ、ほろりとした他吉が、
「ほんまにお前にも苦労さすなあ。堪忍《かに》してや。しかし、なんやぜ、よそへ貰われるより、こないしてお祖父《じい》やんと一緒に飯《まま》食べる方が、なんぼ良えか判れへんぜ。な、そやろ? そない思うやろ?」
と、言っても、腑に落ちたのかどうかしきりに膝の上の飯粒を拾いぐいしていた。
入学式の日、他吉は附き添うて行った。
校長先生の挨拶に他吉はいたく感心し、傍にいる提灯屋の親爺をつかまえて、
「やっぱし校長先生や。良えこと言いよんなあ。人間は何ちゅうても学やなあ」
と、しきりに囁いていたが、やがて新入生の姓名点呼がはじまると、他吉は襟をかき合わせ、緊張した。
「青木道子」
「ハイ」
「伊那部寅吉」
「ハイ」
「宇田川マツ」
「ハイ」
「江知トラ」
「ハイ」
アイウエオの順に名前を読みあげられたが、子供たちは皆んなしっかりと返辞した。
サの所へ来た。
「笹原雪雄」
「ハイ」
笹原雪雄とは笹原が君枝の代りに貰った養子である。来賓席の笹原はちょっと赧くなったが、子供がうまく答えたので、万更でもないらしくしきりにうなずいていた。
「佐渡島君枝」
「…………」
君枝は他所見していた。
「佐渡島君枝サン」
他吉は君枝の首をつつき、
「返辞せんかいな」
囁いたが、君枝はぼそんとして爪を噛んでいた。
「佐渡島君枝サンハ居ラレマセンカ? 佐渡島君枝サン!」
他吉はたまりかねて、
「居りまっせエ、へえ。居りまっせ」
と、両手をあげてどなった。
頓狂な声だったので、どっと笑い声があがり、途端におどろいて泣きだす子供もあった。
さすがに他吉は顔から火が出て、よその子は皆しっかりしているのに、この子はこの儘育ってどうなるかと、がっくり肩の力が抜けた。
5
入学式の日は祖父が附添い故、誰にも虐められずに済んだが、翌日からもう君枝は、親なし子だと言われて、泣いて帰った。
けれど、他吉は俥をひいて出ていて居ず、留守中ひとりで食べられるようにと、朝出しなに他吉が据えて置いた膳のふきんを取って、がらんとした家の中で、こそこそ一人しょんぼり食べ、共同水道場へ水をのみに行って、水道の口に舌をあてながら、ひょいと見ると、路地の表通りで、
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「中の中の小坊さん
なんぜエ背が低い
親の逮夜《たいや》に魚《とと》食うて
それでエ背が低い」
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そして、ぐるぐる廻ってひょいとかがみ、
「うしろーに居るのは、だアれ?」
女の子が遊んでいた。
君枝はちょこちょこ駈け寄って行き、
「わて他あやんとこの君ちゃんや。寄せてんか(仲間に入れてんかの意)」
と、頼んで仲間に入れて貰ったが、子供たちの名に馴染がなくて、うしろに居るのは誰とはよう当てず、
「あんた、辛気くさいお子オやなア」
もう遊んでくれなかった。
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「通らんせエ
通らんせエ
横丁の酒屋へ酢買いに
行きは良い良い
帰りは怖い
ここは地獄の三丁目」
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子供たちの歌を背中でききながら、すごすご路地へ戻って来ると
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