笹原が言った。途端に他吉の肚はきまった。
「旦さん、えらい変骨言うようでっけど、わたいは孫を酒にかえる気イはおまへん。眼に入れても痛いことのない孫でっけど、酒に代えて口の中へ入れたら舌が火傷してしまいま」
「そない言うてしもたら、話でけへんがな。――そらまあ、おまはんが私は要らん言うのやったらそいでええとせえ。しかし、他あやん、おまはんはそいでええとしても、ひとつその子のことを考えてみたりイな。河童路地で育つ方が倖せか、それとも……」
 痛いところを突かれたが、他吉はいきなり、
「そら判ってます。よう判ってま」
 と、顔をあげて、
「――しかし、旦さん、たとえ貧乏でも、狸や河童の巣みたいな路地で育っても、やっぱり血をわけたわいに育ててもろた方が、この子の倖せだす。いやきっとわたいが倖せにしてやりま」
 そこまで言って、他吉は男泣いた。
 やがて、涙をふきふき、
「――まあ、聴いてやっとくれやす。この子のお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]も、わいが無理矢理|横車《ごりがん》振ってマニライ行かしたばっかりに、ころっと逝ってしまいよりました。この子のお母んもそれを苦にして、到頭……。言うたら皆わたいの責任だす。もうわたいは自分の命をこの孫にくれてやりまんねん」
 言っているうちに、本当にその覚悟が膝にぶるぶる来て、光った眼をきっとあげると、傍にいた笹原の御寮人が、
「あんたのそう言うのんはそら無理もないけど、ほんまに男手ひとつで育てられまっか。あんた、お乳が出るのんか」
「出まへん、なんぼわたいの胸を吸うても、そら無理だす。胃袋で子供うめ言うのと同じだす」
「それ見なはれ」
「しかし、御寮はん、ミルクいうもんが……」
 言うと、笹原が、
「ミルクで育った子は弱い」
 だしぬけに言った、
「そうだすとも……」
 笹原の御寮人は残酷めいた口元を見せて、
「――他あやん、うちはその子貰たらお乳母をつけよ思てまんねんぜ。それに他あやん、あんたその子|背負《せた》ろうて俥ひく気イだっか」
「ほな、こいで失礼さしてもらいま。えらいおやかまっさんでした」
 他吉が頭を下げると、背中の君枝の頭もぶらんと宙に浮いて、下った。

     4
 
 間もなく他吉は南河内狭山の百姓家へ君枝を里子に出し、その足で一日三十里梶棒握って走った。
 里子の養育料は足もとを見られた月に二十円の大金だ。なお、婿の新太郎が大阪に残して行った借金もまだ済んでいない。
 他吉の俥はどこの誰よりも速く、客がおどろいて、
「あ、おっさん、そないに走ってくれたら、眼エがまう。もうちょっと、そろそろ行《や》って貰えんやろか」
 と、頼んでも、
「わたいはひとの二倍、三倍稼がんならん身体だっさかい、ゆっくり走ってられまへんねん」
 辛抱してくれと、言って振り向いた眼の凄みに物を言わせて、他吉はきかなんだ。
 その頃、大阪の主な川筋に巡航船が通った。
 俥など及びもつかぬ速さで、おまけに料金もやすく、切符に景品をつける時もあって、自然俥夫連中は打撃をうけ、俥に赤い旗を立てて、巡航船の乗場に頑張り、巡航船に乗ろうとする客を、喧嘩腰で引っ張ろうとしてかなわぬ時は巡航船へ石を投げるという乱暴もはたらいたが、他吉はそんな仲間にはいらず「ベンゲットの他吉」を売り出そうとせなんだ。
 もっとも、朋輩との客の奪い合いには、浅ましいくらい厚かましく出て、さすがに「ベンゲットの他あやん」の凄みを見せ、その癖酒は生駒に願掛けたといって一滴ものまず、なお朋輩に二十銭、三十銭の小銭を貸すと、必ず利子を取った。
 次郎ぼんに貰った夕刊を一銭で客に売りつけることもあり、五厘のことで吠えた。
 ある夏、角力の巡業があった。
 横綱はじめ力士一同人力車で挨拶まわりをすることになったが、横綱ひとり大き過ぎて合乗用の俥にも乗れず、といって俥なしの挨拶まわりも淋しいと考えた挙句、横綱の腰に太い紐をまわし、その紐を人力車二台にひかせて、横綱自身よいしょよいしょと練り歩いて、恰好をつけ、大阪じゅうを驚かせた。
 新聞に写真入りで犬も吠えたが、この俥をひいたのが、他吉とその相棒の増造で、さすが横綱だけあって祝儀の張り込み方がちがう、どや、これでたこ梅か正弁丹吾《しょうべんたんご》で一杯やろかと増造が誘ったのを、他吉は行かず、
「それより此間《こないだ》貸した銭返してくれ。利子は十八銭や、――なにッ! 十八銭が高い? もういっぺん言うてみイ」
 そんな時他吉の眼はいつになくぎろりと光り、マニラ帰りらしい薄汚れた麻の上着も、脱がぬだけに一そう凄みがあった。
 ところが、それから半月ばかり経ったある夜のことだ。
 御霊の文学座へ太夫を送って帰り途、平野町の夜店で孫の玩具を買うて、横堀伝いに、たぶん筋違橋《すじかいばし
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