、〆団治は不憫だと落語を聴かせてやるのだった。
 しかし、君枝は笑わなかった。
「わいの落語おもろないのんか」
 〆団治はがっかりして、
「――ええか。この落語はな、『無筆の片棒』いうてな、わいや他あやんみたいな学のないもんが、広告のチラシ貰《もろ》て、誰も読めんもんやさかい、往生して次へ次へ、お前読んでみたりイ言うて廻すおもろい話やぜ。さあ、続きをやるぜ笑いや」
 そして、皺がれた声を絞りだした。――
「さあ、お前読んだりイ」
「あのう、えらい鈍なことでっけど、わたいは親爺の遺言で、チラシを断ってまんのんで……」
「えらいまた、けったいなもん断ってんねんなあ。仕様《しや》ない。次へ廻したりイ」
「へえ」
「さあお前の順番や、チラシぐらい読めんことないやろ。読んだりイ」
「大体このチラシがわいの手にはいるという事は、去年の秋から思っていた。死んだ婆《ば》さんが去年の秋のわずらいに、いよいよという際になって、わいを枕元に呼び寄せて、――伜お前は来年は厄年やぞ。この大厄を逃れようと思たらよう精進するんやぞと意見してくれたのを守らなかったばっかりに、いま計らずもこの災難!」
「おい、あいつ泣いて断りしとる。お前代ったりイ」
「よっしゃ。――読んだら良えのんやろ?」
「そや、どない書いたアるか、読んだら良えのや」
「書きよったなあ。うーむ。なるほど、よう書いたアる」
「書いたアるのは、よう判ってるわいな。どない書いたアるちゅうて、訊いてんねんぜ」
「どない書いたアるちゅうようなことは、もう手おくれや。そういうことを言うてる場席でなし、大体このチラシというもんは……」
「おい。あいつも怪しいぜ、もうえ、もうえ、次へ廻したりイ」
 〆団治は黒い顔じゅう汗を流して、演《や》ったが、君枝はシュンとして、笑わなかった。
「難儀な子やなあ。笑いんかいな」
「わてのお父ちゃんやお母ちゃんどこに居たはんねん?」
「こらもう、わいも人情噺の方へ廻さして貰うわ」
 〆団治はげっそりした声をだした。
 日が暮れて、〆団治が寄席へ行ってしまうと、君枝はとぼとぼ源聖寺坂を降りて、他吉の客待ち場へしょんぼり現われた。
「どないしてん? 家で遊んどりんかいな」
「…………」
「誰も遊んでくれへんのんか」
 それにも返辞せず、腋の下へ手を入れたまま、他吉をにらみつけて、鉛のように黙っていた。
「そんなとこへ手エ入れるもんやあれへん」
 すると、手を出して爪を噛むのだ。
「汚《ばばち》いことしたらいかん。阿呆!」
 呶鳴りつけると、下駄を脱いで、それを地面へぶっつけ、そして、泪ひとつこぼさず、白眼をむいてじっと他吉の顔をにらみつけているのだ。
 他吉はがっかりして子供のお前に言っても判るまいがと、はじめて小言をいい、
「お前はよそ様《さん》の子供|衆《し》と違《ちご》て、両親《ふたおや》が無いのやさかい、余計……」
 ……行儀よくし、きき分けの良い子にならねばならぬ、家で待っているのは淋しいだろうが、そうお祖父《じ》やんの傍にばかし食っついていては万一お祖父やんが死んだ時は一体どうする、ひとり居ても淋しがらぬ強い子供にならねばいけない、あとひとり客を乗せたら、すぐ帰る故、「先に帰って待って……」いようとは、しかし、君枝はどうなだめても、せなんだ。
 他吉は半分泣いて、
「そんなら、お祖父やんのうしろへ随いて来るか。辛度《しんど》ても構《かめ》へんか。俥のうしろから走るのんが辛い言うて泣けへんか」
 そして、客を拾って、他吉が走りだすと君枝はよちよち随いて来た。
 他吉は振りかえり、しばしば提灯の火を見るのだと立ち停って、君枝の足を待ってやるのだった。
 客が同情して、この隅へ乗せてやれと言うのを、他吉は断り、いえ、こうして随いて来さす方が、あの子の身のためだ、子供の時苦労させて置けば、あとで役に立つこともあろうという理窟が――、けれど他吉は巧く言えなんだ。
 よしんば、言えたにしても、――半分は不憫さからこうしているのだ、ひとりで置いといて寂しがらせるのが可哀想だから連れて走っているのだ、いや、マニラで死んだこの子の父親がいまこの子と一しょに走っているのだという気持が、客に通じたかどうか、――客を乗せたあとの俥へ君枝を乗せて帰る途、他吉はこんな意味のことを、くどくど君枝に語って聴かせたが、ふと振り向くと、君枝は俥の上で鼾を立てていた。
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「船に積んだアら
どこまで行きゃアる
木津や難波の橋の下ア…………」
[#ここで字下げ終わり]
 他吉は子守歌をうたい、そして狭い路地をすれすれにひいてはいると、水道場に鈍い裸電燈がともっていて、水滴がポトリポトリ、それがにわかに夜更めいて、間もなく夜店だしがいつものように背中をまるめて黙々と帰って来る時分だろう
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