君枝はいきなり、きんきんした声をあげて、
「〆さん、あんたアンドロメダ星座いうのん知ったはる?」
「なんや? アンロロ……? 舌噛ましイな――根っから聴いたことおまへんな。そんな洋食できたんか?」
「阿呆やな。洋食とちがう、星の名や」
 君枝は肩をくねくねさせて笑い、
「――ほな、南十字星は……?」
「学がないおもて、そない虐めなや。しかし、おまはんはえらいまた学者になったもんやなあ」
「そら、もう……」
 と、君枝は足を拭きながら、ぺろッと舌を出し、明日の夕方は中之島公園で次郎ぼんに会うのや。いそいそ下駄をはいていると、あまい気持がうずくように来て、あ、いけない、これが恋とか愛とかいうもんやろか。胸を抱くようにして呟いているところへ、お渡御が済んだらしく、他吉と種吉がとぼとぼ帰って来た。
 君枝はいきなり胸が痛み、埃まみれの他吉の足を洗ってやるのだった。
 他吉は余程疲れていたのか、〆団治が、
「こうーっと、南十字星てどの方角に出てる星やろか?」
 と、しきりに空を仰ぎながら言ったのへ、
「あんぽんたん! 南十字星が内地で見えてたまるかい。言うちゃなんやけど、あの星はな、わいがベンゲットやマニラにいた時、毎晩見てた星やぞ。あの星を見た者は、広い大阪に、このわいのほかには沢山《たんと》は居れへんネやぞ、見たかったら、南へ行け、南へ!」
 と、言ったあと、涼み話の仲間入りをしようともせず、這うようにしてあがった畳の上へごろりと転がると、君枝がつくって置いた冷しそうめんも食べずに、そのまま鼾だった。
 君枝は今日次郎に会ったことを言いそびれた。
 言えば、他吉はびっくりもし、喜びもするだろうと思ったが、他吉の知らぬ間に次郎と会うたことがなにか済まないような気がするのだった。
 その癖、次郎のことを口にだしたくて仕方がないのだ。寝転んでいる他吉の上へ蚊帳を釣りながら、よっぽど起して、そうめんを一緒に食べながら、次郎のことを言い、プラネタリュウムの話もしようと思ったが、ぐんなりして鼾をかいている他吉の寝顔を見ると、起す気にはなれなんだ。
「明日の朝話そ」
 君枝は呟いたが、朝起きざまに、今日は次郎に会うのだという考えが、ぽっと頭に泛ぶと、やはり君枝は次郎のことを言いそびれてしまった。

     5

 お渡御《わたり》に出て、すっかり疲れ切っていたが、しかし、他吉は夜が明けて路地の空地で行われる朝のラジオ体操も休まなかった。
 そして、いつものように夕方から俥をひいて出て、偶然通りかかった難波橋の上から、誰やら若い男と一緒にボートに乗っている君枝の顔を、ボートの提燈のあかりでそれと見つけた。
 客を乗せているのでなければ、俥を置き捨ててそのまま川へ飛び込み、ボートに獅噛みついてやりたい気持を我慢して、他吉は客を送った足ですぐ河童路地へ戻り、
「ああ、やっぱり親のない娘はあかん。なんぼ、わいが立派に育てたつもりでも、到頭あいつは堕落しくさった」
 と、頭をかかえて腑抜けていると、一時間ばかり経って、君枝はそわそわと帰って来た。
 顔を見るなり、他吉は近所の体裁を構わぬ声を出した。
「阿呆! いま何時や思てる。もう直きラジオかて済む時間やぜ、若い女だてらちゃらちゃら夜遊びしくさって。わいはお前をそんな不仕鱈な娘に育ててない筈や。朝日軒の娘はんら見てみイ。皆真面目なもんや。女いうもんは少々縁遠ても、あない真面目にならなあかん。今までどこイ行てた?」
「中之島へ行ててん」
「やっぱり、そやな」
 他吉はがっかりした眼付きをちらっと光らせて、
「じゃらじゃらと、若い男と公園でボートに乗ってたやろ?」
 睨みつけると、
「お祖父ちゃん見てたの?」
 と、君枝はどきんとしたが、知れたら知れたで、かえって次郎のことが言い易くなったと思い、
「――それやったら、声掛けてくれはったら、良かったのに。次郎さんかて喜びはったのに……」
「次郎さんてどこの馬の骨や?」
「蝙蝠傘の骨を修繕したはった人の息子さんや」
 君枝はくすんと笑った。
「次郎ぼん――かいな」
「そや」
「ほんまに次郎ぼんか」
 他吉の眼はちょっと細まった。
「なにがうちが嘘いうもんかいな」
 君枝は昨日次郎ぼんにあったいきさつを話して、
「――これ、次郎ぼんが引伸してくれはってん」
 マラソン競争の写真を見せると、他吉もその写真のことは知っていて、
「こらまた、えらい大きに伸びたもんやなあ。ほんまに、これ次郎ぼんが引伸したら言うもんしよったんか。ふうん。ほな、次郎ぼん、もう一人前の写真屋になっとるんやなあ。――銭渡したか」
「そんなもん受け取りはるかいな」
「なんぜや? なんぜ受け取れへんねん? 商売やないか。うちだけただにして貰たら、済まんやないか。きちんと渡しときんかいな。どうせ、口
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