ってるけど……」
「ええ、皆達者です」
「やっぱり皆まだ嫁《かたづ》いてないんですか」
「難儀な家やて、お祖父ちゃんも言うてはります」
 君枝はまた他吉のことを想いだした。今頃どこを練り歩いているだろうか。場内は冷房装置があるのか、涼しかった。
 はじめに文化映画があり、それからプラネタリュウムの実演があった。
「――今月のプラネタリュウムの話題は、星の旅、世界一周でございます」
 こんな意味の女声のアナウンスが終ると、美しい音楽がはじまり、場内はだんだんに黄昏の色に染まって、西の空に一番星、二番星がぽつりと浮かび、やがて降るような星空が天井に映しだされた。
 もうあたりは傍に並んで腰かけている次郎の顔の形も見えぬくらい深い闇に沈み、夜の時間が暗がりを流れ、団体見学者の群のなかから鼾の音がきこえた。天井を仰いでいるうちに夜とかんちがいしたのであろう。バネ仕掛けの椅子は居眠り易く出来ていた。
 しずかにプラネタリュウムの機械の動く音がすると、星空が移り、もう大阪の空をはなれて、星の旅がはじまり、やがて南十字星が美しい光芒にきらめいて現われた。
 流星が南十字星を横切る。雨のように流れるのだ。幻燈のようであった。
 あえかな美しさにうっとりしていると、解説者は南十字星へ矢印の青い光を向けて、
「――さて、皆さん、ここに南十字星が現われて、わたし達はいよいよ南方の空までやって来ました。時刻はマニラの午前一時、丁度真夜中です。しんと寝しずまったマニラの町を野を山を椰子の葉を、この美しい南十字星がしずかに見おろしているのです」
 マニラときいて、君枝は睡気からさめた。
「あ」
 君枝は声をあげて、それでは祖父はあの星を見ながらベンゲットで働き、父はあの星を見ながらマニラでひとりさびしく死んだのかと、頬にも涙が流れて流星が眼にかすみ、そんな自分の心を知ってプラネタリュウムを見せてくれた次郎の気持が、暗がりの中でしびれるほど熱く来た。
 次郎と別れて、河童路地へ戻って来ると、祭の夜らしく、〆団治や相場師や羅宇しかえ屋[#「羅宇しかえ屋」は底本では「羅字しかえ屋」と誤記]の婆さんなどが、床几を家の前の空地へ持ちだして、洋服の仕立職人が大和の在所から送ってくれたといって持って来た西瓜を食べながら、夕涼みしていた。西瓜の顔を見ると、庖丁を取りだしてくる筈の種吉は、他吉といっしょにお渡御に出かけて、まだ帰っていなかった。
「今日びはもうなんや、落語も漫才に圧されてしもて、わたいらはさっぱり駄目ですわ。なんせ漫才《むこさん》は二人掛り、こっちは一人やさかいな。一日に一つ小屋をもたしてくれたらええとせんならんけど、それも人気のある連中のことで、わたいらみたいなもんは年中あぶれてますわ。といって、今更漫才の仲間入りも出けんさかいな」
 半袖を着た〆団治が西瓜の種を吐きだしながら言うと、相変らず落ちぶれている相場師が、
「えらい藪蚊や」
 と、団扇でそこらぱたぱた敲きながら、
「――〆さん、おまはん一ぺんぐらい、寄席の切符くれても良えぜ。わいもおまはんと長いこと附合うてるけど、今まで一ぺんだって切符くれたことがあるか? ほんまにけちんぼやぜ」
「そない毒性な言い方しイな。いまに遣るわいな」
「遣る、遣るて、おまはんはなんぼ口が商売か知らんけど、日の丸湯の鑵といっしょで湯(言う)ばっかしや。――なあ、お婆ん、そやろ?」
「そうだすとも。大体〆さんは宣伝たら言うもんが下手くそや。みんなに切符くばって、寄席へ来てもろて、あんたが出る時、ようよう〆団治いうて、パチパチ手エ敲いて貰うようにせなあかん。そういう心掛けやさかい、あんたはいつまでたっても前座してんならんネやぜ、それに、なんだっせ、いつまでも『無筆の片棒』一点張りではあきまへんぜ。今どき無筆やいうようなこと言うてたら、一生うだつがあがれへんぜ。――なあ、君ちゃん、そやろ?」
 羅宇しかえ屋の婆さんはもう歳で、別人のように声が低かった。それに、丁度その時君枝は水道端の漆喰の上にぺたりと跣足になって、しきりに足洗っていたところ故、水の音が邪魔になって、羅宇しかえ屋の婆さんの声が聴きとれなかった。水道端の裸電球の鈍いあかりが、君枝の足を白く照らしていた。
「なに。おばちゃん。おばちゃん今なんぞ言うたやろ?」
「聴えへんかったんか。難儀な娘《こ》やな。――〆さんがな、いつまでも……」
 言いかけて、羅宇しかえ屋の婆さんは話をかえて、
「――いつまで、あんた足|洗《あろ》てなはんネ、水は只やあらへんぜ。冷えこんだらどないすんねん?」
「そない言うたかて、良え気持やもん」
 と、君枝は両足をすり合わせ、
「――明日はまた一日立ちずくめやさかい、マッサージして置かんと……」
 言いながら、ふと空を見ると、星空だった。
 
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