飛んでしもうた。
 ヤトナの儲けでどうにか食いつないでいるものの、そんな風に柳吉の使い方がはげしいので、だんだん問屋の借りも嵩んで来て、一年辛抱した挙句、店の権利の買手がついたのを倖い、思い切って店を閉めることにした。
 店仕舞いの大投売りの売上げ百円余りと、権利を売った金百二十円と、合わせて二百二十円余りの金で問屋の払いやあちこちの支払いを済ませると、しかし十円も残らなかった……。
「……蝶子はんもお気の毒な人やわ。折角維康さんを一人前にして、維康さんのお父さんに、水商売をしてた女に似合わん感心な女や言うて認めて貰おう思たはるのに、維康さんがぼんぼんで、勘当されてても親御さんの財産が頭にあるさかい、折角剃刀店しはっても、一年経つか経たぬうちに、到頭そんな風に店を閉めはって、飛田の近所に二階借りしやはったそうでんねん……」
 君枝がそう語ると、
「へえ? そうですか。それから、どないしやはったんです?」
 蝶子と柳吉の消息を知りたいという気持よりも、君枝の話を並んで歩きながらききたいという気持から、次郎は言った。君枝は声が綺麗だった。おまけに、次郎には久し振りの大阪弁だ。
「それから、なんでも三年ほど蝶子はんが食うやのまずの苦労して貯めはった金と、維康さんが妹さんから無心して来やはった金で、また商売はじめはったんです」
「どんな商売……?」
「関東|煮屋《だきや》……」
 をやろうということになり、適当な売り店がないかと探すと、近くの飛田大門通りに小さな関東煮の店が売りに出ていた。
 現在年寄夫婦が商売しているのだが、士地柄客種が柄悪く荒っぽいので、おとなしい女中はつづかず、といって気性の強い女はこちらがなめられるといった按配で、ほとほと人手に困って売りに出したのだというから、掛け合うと、存外安く造作から道具一切附き三百五十円で譲ってくれた。
 階下は全部漆喰で商売に使うから、寝泊りするところは二階の四畳半一間ある切り、おまけに頭がつかえるほど天井が低く陰気臭かったが、廓の往き戻りで人通りも多く、それに角店で店の段取りから出入口の取り方など大変良かったので、値を聞くなり飛びついて手を打った。
 新規開店に先立ち、法善寺境内の正弁丹吾亭や道頓堀のたこ福をはじめ、行き当りばったりに関東煮屋の暖簾をくぐって、味加減や銚子の中身の工合、商売のやり口を覚えた。
 そして、お互いの名を一字ずつ取って「蝶柳」と屋号をつけ、いよいよ開店することになった。
 まだ暑さの去っていなかった頃とて、思い切って生ビールの樽を仕込んでいた故、早く売り切ってしまわねばビールの気が抜けてしまうと、やきもき心配したほどでもなく、存外よく売れた。
 人手を借りず、夫婦だけで店を切り廻したので、夜の十時から十二時頃までの一番たてこむ時間は眼のまわるほど忙しく、便所に立つ暇もなかった。
 廓をひかえて夜更けまで客があり、看板を入れる頃はもう東の空が紫色に変っていた。くたくたになって二階の四畳半で、一刻《いっとき》うとうとしたかと思うと、もう眼覚しがジジ……と鳴った。寝巻きのままで階下に降りると、顔も洗わぬうちに、「朝食出来ます、四品附十八銭」の立看板を出した。朝帰りの客を当て込んで味噌汁、煮豆、漬物、御飯と都合四品で十八銭、細かい儲けだとたかをくくっていたところ、ビールなどを取る客もいて、結構商売になったから、少々の眠さも我慢出来た。
 秋めいて来て、やがて風が肌寒くなると、もう関東煮屋にもって来いの季節で、ビールに代って酒もよく出た。酒屋の払いもきちんきちんと現金で渡し、酩酒の本鋪から看板を寄贈してやろうというくらいで、蝶子の三味線もこんどばかりは空しく押入れにしまったままだった。
 柳吉もこんどは半分以上自分の金を出したというせいばかりでもなかったろうが、身の入れ方は申し分なかった。
 公休日というものも設けず、毎日せっせと精出したから、無駄費いもないままに、勢い残る一方であった。柳吉は毎日郵便局へ行った。
 身体のえらい商売だから、柳吉は疲れると酒で元気をつけた。酒をのむと気が大きくなり、ふらふらと大金を使ってしまう柳吉の性分を蝶子は知っていたので、ヒヤヒヤしたが、売り物の酒とあってみれば、柳吉も加減して飲んだ。が、そういう飲み方もしかし、蝶子にはまた一つの心配で、いずれはどちらへ転んでも心配は尽きなかった。大酒を飲めば莫迦に陽気になるが、チビチビやる時は元来吃りのせいで無口の上に一層無口になり、客のない時など椅子に腰かけてぽかんと何か考えごとしているらしい容子を見ると、梅田の実家のことを考えてるのとちがうやろか、そう思って、矢張り蝶子は気が気でなかった。
 案の定、妹が婿養子を迎える婚礼に出席を撥ねつけられたといって、柳吉は気を腐らせ、貯金の中から二百円ほど
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