ほどそう言えば、その地蔵は水垢で全身赤錆びて、眼鼻立ちなどそれと判別しかねるくらい擦り切れていて、胸のあたりの袈裟の模様も見えなくなってしまっている。随分繁昌している地蔵らしかった。
 次郎はそんな迷信が阿呆らしく、それを信じているらしい君枝がかえって哀れにすら思われて、
「ほんまに効くのかなあ。僕はあやしいと思うよ」
 ずけずけと言ったが、ふと君枝の洗っている部分が地蔵の足だと気がつくと、何か思い当り、
「他あやん、この頃足でもわるいのんとちがうの?」
 と、訊いた。
「いいえ、わるいことはあれしまへんけど、お祖父ちゃんは足つかう商売やさかい、疲れが出んように思て……」
 こうして願を掛けているのだと、君枝は一所懸命な手の動きでそれを示した。
 次郎はいきなり胸うたれて、もう君枝の迷信を咎める気持を捨てた。
「お待遠《まっとう》さん」
 立ち上った君枝の、いくらか上気して晴ればれとした顔を見ると、何故ともなしに次郎の心に急に大阪の郷愁がぐっと来て、その拍子に、河童路地での日々がなつかしく想い出された。
 路地から見えるカンテキ横丁のしもた屋の二階で、夏の宵、「現われ出でたる武智光秀……」と一つ文句の浄瑠璃をくりかえしくりかえし稽古しているのを、父親が蝙蝠傘の骨を修繕しながら口真似していた――そんなことまで想い出されて、自安寺の表門を出ると、
「お君ちゃん、文楽でも見えへんか?」
 と言った。
「そうでんなあ」
 迷っていると、
「文楽見たことある? 僕も見たことないけど、久し振りに大阪へ来た序でにいっぺん大阪らしい味を味わうとこ思て」
 次郎は言った。
「ええもんや言うことは聴いてまっけど……」
 しかし、本当に次郎と一緒にそんなとこへ行ってもよいものかと、君枝は躊躇した。
「どうせ、今日はお祭やろ?」
 重ねて次郎に誘われると、君枝は水掛け地蔵へお詣りしたことで気が軽くなっていたせいもあり、うなずいた。
 千日前の電車通りを御堂筋の方へ折れて、新橋の方へ並んで歩く途々、君枝は、
「文楽いうたらね、蝶子はん、この頃浄瑠璃習たはるんでっせ」
 蝶子の噂をした。
「蝶子はんて、あの種さんとこの?」
「そうだす」
「維康さんどないしたはりまんねん? さっき千日前の剃刀屋覗いたら、居たはれへんかったけど……」
 次郎が言うと、君枝は、
「あそこ廃めはったんは、そらもう古い話やわ。十年も昔になりまっしゃろか」
 と、話しだした……。

     3

 高津神社坂下の小さな店で剃刀屋を始めたが、はやらなかった。東西屋を雇って開店した朝、蝶子は向う鉢巻きでもしたい気持で店の間に坐っていた。午頃、
「さっぱり客が来えへんな」
 と、柳吉は心細い声をだしたが、蝶子はそれに答えず、眼を皿のようにして表を通る人を睨んでいた。
 午過ぎ、やっと客が来て安全剃刀の替刃一枚六銭の売上げという情けないありさまだった。
「まいどおおけに」
「どうぞごひいきに」
 夫婦がかりで、薄気味悪いくらいサーヴィスを良くしたが、人気が悪いのか新店のためか、その日は十五人客が来ただけで、それも殆んど替刃ばかり、売上げは〆めて二円にも足らなかった。
 そんな風に客足がさっぱりつかず、ジレットの一つも出るのは良い方で、大抵は耳かきか替刃ばかりの浅ましい売上げの日が何日も続いた。
 話の種も尽きて、退屈したお互いの顔を情けなく見かわしながら店番していると、いっそ恥かしい気がし、退屈しのぎに昼の間の一時間か二時間浄瑠璃を稽古しに行きたいと言いだす柳吉を、蝶子はとめる気も起らなかった。
 柳吉は近くの下寺町で稽古場をひらいている竹本組昇に月謝五円で弟子入りし、二ツ井戸の天牛書店で稽古本の古いのを漁って、毎日ぶらりと出掛けた。柳吉は商売に身を入れるといっても、客が来なければ仕様がないといった顔で店番をするときも稽古本をひらいて、ぼそぼそうなった。その声がいかにも情けなく、蝶子は上達したと褒めるのもなんとなく気が引けた。
 毎月食い込んで行ったので、蝶子は再びヤトナに出た。苦労とはこのことかとさすがにしんみりしたが、宴会の席ではやはり稼業《しょうばい》大事とつとめて、一人で座敷を浚って行かねばすまぬ、そんな気性はめったに失われなかった。ひとつには、柳吉の本妻は先年死に、蝶子も苦労の仕甲斐があった。
 ところが、柳吉はそんな蝶子の気持を知ってか知らずにか、夕方蝶子が三味線を入れた小型の手提げ鞄をもって出掛けて行くと、そわそわと早仕舞いして、二ツ井戸の市場の中にある屋台店で、かやく飯とおこぜ[#「おこぜ」に傍点]の赤出しを食べ、鳥貝の酢味噌で酒をのみ、六十五銭の勘定を払って、安いもんやなあと、「一番」でビールやフルーツをとり、肩入れしている女にふんだんにチップをやると、十日間の売上げが
前へ 次へ
全49ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
織田 作之助 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング