ーモニカを吹いている。
「流れ流れてエ、落ち行く先はア、北はシベリヤ、南はジャバよ……」
 というその曲が、もう五十近い他吉の耳にもそこはかとなく物悲しかった。
 ベンチに並んで、腰掛けた。
「お父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]、なんぜこんなとこイ連れて来んならんねん。けったいなお父つぁん[#底本では「お父っあん」となっている]やなあ。話があるねんやったら、はよ言いんかいな」
 初枝がいくらか不安そうに言うと、他吉は横向いて、
「明いとこで涙出して見イ。人さんに嗤われて、みっともないやないか」
 初枝はどきんとした。
「ほな、なんぞ泣かんならんようなことがあるのんか」
「…………」
 他吉は黙って、マニラからの手紙を渡した。
 初枝は立ち上って、瓦斯燈のあかりに照らして読んだ。
 途端に初枝は気が遠くなり、ふと気がついた時は、もう他吉の俥の上で、にわかに下腹がさしこんで来た。
 産気づいたのだと、他吉にもわかり、路地へ戻って、羅宇しかえ屋のお内儀の手を借りて、初枝を寝かすなり、直ぐ飛んで行って産婆を自身乗せて来たので、月足らずだったが、子供は助かり、その代り初枝はとられた。
「えらい因果なこっちゃな。死亡届けが二つと出産届けが一つ重なったやないか」
 朝日軒の敬吉は法律知識を高慢たれて、ひとり喧しかったが、しかし、他の者は皆ひっそりとして、羅宇しかえ屋の女房でさえ、これを見ては、声をつつしんだ。
 長屋の寄り合いにはなくてかなわぬ〆団治も、
「おまはん、今日はただの晩やあらへんさかい、あんまり滑稽《ちょか》なこと言いなはんなや」
 と、ダメを押されて、渋い顔をしていたが、けれど、さすがに黙っているのは辛いと見えて、腑抜けた恰好で壁に向って、ぶつぶつひとりごとを言っている他吉の傍へ寄って、
「他あやん、ほんまにえらいこっちゃな、まるでお前、盆と正月が一緒に……」
 うっかり言いかけると、
「〆さん、阿呆なこと言いな!」
 敬吉の声が来た。
 それで、さすがに〆団治もシュンとしてしまったが、暫らくすると、また口をひらいて、
「しかし、他あやん、人間はお前、諦めが肝腎やぜ。おまはんもよくよく運《かた》のわるい男やけど、負けてしもたらあかんぜ。そんな、夢の中で豆腐踏んでるみたいな顔をせんと、もっとはんなり[#「はんなり」に傍点]しなはれ。おまはんまで寝こんで
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