す。それからしゃっとこ[#「しゃっとこ」に傍点]立ちをして街を歩いてやろうかと思っています。
問。被告のその気持は諦めという思想なのか。
答。いいえ違います。私は彼女をまだ初恋のように恋しています。彼女は私のたった一人の恋人です。外国の話しにこんなのがあります。二人の相愛の恋人が、山登りをして、女が足を滑らせ、底知れぬ氷河の割目に落ちこんでしまったのです。男は無限の憂愁と誠意を黒い衣に包んで、その氷河の尽きる山の麓の寒村に、小屋を立てて、一生をそこで暮したということです。氷河は一日三尺くらいの速力で、目に見えず流れているのだそうです。男がそこに、昔のままの十八の少女の姿をした彼女を発見するまでには、少なくも三四十年の永い歳月が要るのです。その間、女の幻を懐いて、嵐の夜もじっと山合いの小屋の中に、彼女を待ち続けたというのです。たとえシイカが、百人の恋人を港のように巡りつつ、愛する術を忘れた寂寥を忘れに、この人生の氷河の下を流れて行っても、私はいつまでもいつまでも、彼女のために最後の食卓を用意して、秋の落葉が窓を叩く、落漠たる孤独の小屋に、彼女をあてもなく待ち続けて行きましょう。
 それか
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