殺したこの自分に対して、憎悪さえも感じていない彼女を見た。

     7

 街路樹の新芽が眼に見えて青くなり、都会の空に香《かぐ》わしい春の匂いが漂ってきた。松の花粉を浴びた女学生の一群が、ゆえもなく興奮しきって、大きな邸宅の塀の下を、明るく笑いながら帰って行った。もう春だわね、と言ってそのうちの一人が、ダルクローズのように思いきって両手を上げ、深呼吸をした拍子に、空中に幾万となく数知れず浮游していた蚊を、鼻の中に吸いこんでしまった。彼女は顰《しか》め面《つら》をして鼻を鳴らし始めた。明るい陽差しが、軒に出された風露草《グラニヤ》の植木鉢に、恵み多い光りの箭《や》をそそいでいた。
 取調べは二月ほどかかった。スプリング・スーツに着更えた予審判事は、彼の犯行に特種の興味を感じていたので、今朝も早くから、友人の若い医学士といっしょに、ごく懇談的な自由な取調べや、智能調査、精神鑑定を行った。以下に書きつけられた会話筆記は、その中から適宜《てきぎ》に取りだした断片的の覚書である。

問。被告は感情に何かひどい刺戟《しげき》を受けたことはないか?
答。橋の向うの彼女を知ろうとする激しい慾求が
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