ところに巻きつけていることを考えていた。
 今日はホテルで会う約束だった。シイカが部屋をとっといてくれる約束だった。

――蒸《む》すわね、スチイムが。
 そう言ってシイカが窓を開けた。そのままぼんやりと、低い空の靄の中に、無数の灯火が溶けている街の風景を見下しながら、彼女がいつものマズルカを口吟《くちずさ》んだ。このチァイコフスキイのマズルカが、リラの発音で、歌詞のない歌のように、彼女の口を漏《も》れてくると、不思議な哀調が彼の心の奥底に触れるのだった。ことに橋を渡って行くあの別離の時に。
――このマズルカには悲しい想い出があるのよ。といつかシイカが彼を憂鬱にしたことがあった。
――黒鉛ダンスって知ってて?
 いきなりシイカが振り向いた。
――いいえ。
――チアレストンよりもっと新らしいのよ。
――僕はああいうダァティ・ダンスは嫌いです。
――まあ、おかしい。ホホホホホ。
 このホテルの七階の、四角な小部屋の中に、たった二人で向い合っている時、彼女が橋の向うの靄の中に、語られない秘密を残してきていようなどとはどうして思えようか。彼女は春の芝生のように明るく笑い、マクラメ・レースの手提
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