す。それからしゃっとこ[#「しゃっとこ」に傍点]立ちをして街を歩いてやろうかと思っています。
問。被告のその気持は諦めという思想なのか。
答。いいえ違います。私は彼女をまだ初恋のように恋しています。彼女は私のたった一人の恋人です。外国の話しにこんなのがあります。二人の相愛の恋人が、山登りをして、女が足を滑らせ、底知れぬ氷河の割目に落ちこんでしまったのです。男は無限の憂愁と誠意を黒い衣に包んで、その氷河の尽きる山の麓の寒村に、小屋を立てて、一生をそこで暮したということです。氷河は一日三尺くらいの速力で、目に見えず流れているのだそうです。男がそこに、昔のままの十八の少女の姿をした彼女を発見するまでには、少なくも三四十年の永い歳月が要るのです。その間、女の幻を懐いて、嵐の夜もじっと山合いの小屋の中に、彼女を待ち続けたというのです。たとえシイカが、百人の恋人を港のように巡りつつ、愛する術を忘れた寂寥を忘れに、この人生の氷河の下を流れて行っても、私はいつまでもいつまでも、彼女のために最後の食卓を用意して、秋の落葉が窓を叩く、落漠たる孤独の小屋に、彼女をあてもなく待ち続けて行きましょう。
それから若い医学士は、被告の意識、学力、記憶力、聯想観念、注意力、判断力、感情興奮性等に関して、いろいろ細かい精神鑑定を行った。
女を一番愛した男は? ショペンハウエル。Mの字のつく世界的音楽家は? ムゥソルグスキイ、モツァルト、宮城道雄。断髪の美点は? 風吹けば動的美を表す。寝沈まった都会の夜を見ると何を聯想するか? ある時は、鳴り止まったピアノを。ある時は、秋の空に、無数につるんでいる赤蜻蛉《あかとんぼ》を。等々々、……
8
シイカは川岸へ出るいつもの露路の坂を、ひとり下って行った。空には星が冷やかな無関心を象徴していた。彼女にはあの坂の向うの空に光っている北斗七星が、ああやって、いつものとおりの形を持していることが不自然だった。自分の身に今、これだけの気持の変化が起っているのに天体が昨日と同じ永劫《えいごう》の運行を続け、人生がまた同じ歩みを歩んで行くことが、なぜか彼女にとって、ひどく排他的な意地悪るさを感じさせた。彼女は今、自分が残してきた巷《ちまた》の上に、どんよりと感じられる都会のどよめきへ、ほのかな意識を移していた。
だが、彼女の気持に変化を与え、彼女を憂愁の闇でとざしてしまった事実というのは、劇場の二階から突き落されて、一枚の熊の毛皮のように圧しつぶされてしまった、あのヴァイオリンを弾く銀行家の息子ではなかった。また、彼女のために、殺人まで犯した男の純情でもなかった。では?……
彼女が籠に入れられた一羽の伝書鳩を受け取り、彼に、さよなら、とつめたい一語を残してあのガランとした裁判所の入口から出てきた時、ホテルへ向うアスファルトの舗道を、音もなく走って行った一台のダイアナであった。行き過ぎなりに、チラと見た男の顔。幸福を盛ったアラバスタアの盃のように輝かしく、角《つの》かくしをした美しい花嫁を側に坐らせて。……
彼女の行いがどうであろうと、彼女の食慾がどうであろうと、けっして汚されはしない、たった一つの想い出が、暗い霧の中に遠ざかって行く哀愁であった。
心を唱う最後の歌を、せめて、自分を知らない誰かに聞いてもらいたい慾望が、彼女のか弱い肉体の中に、生を繋ぐただ一本の銀の糸となって、シイカは小脇に抱えた籠の中の鳩に、優しい瞳を落したのだった。
9
一台の馬車が、朗かな朝の中を走って行った。中には彼ともう一人、女優のように華手《はで》なシャルムーズを着た女が坐っていた。馬車は大きな音を立てながら、橋を渡って揺れて行った。彼の心は奇妙と明るかった。橋の袂に立っている花売の少女が、不思議そうな顔をして、このおかしな馬車を見送っていた。チュウリップとフリイヂヤの匂いが、緑色の春の陽差しに溶けこんで、金網を張った小いさな窓から、爽かに流れこんできた。
何もかもこれでいい。自分は一人の女を恋している。それでいい。それだけでいい。橋の向うへ行ったとて、この金網の小窓からは、何がいったい見られよう。……
三階建の洋館が平屋の連りに変って行った。空地がそこここに見えだした。花園、並木、灰色の道。――たった一つのこの路が、長く長く馬車の行方に続いていた。その涯の所に突然大きな建物が、解らないものの中で一番解らないものの象徴のように、巍然《ぎぜん》として聳《そび》えていた。彼はそれを監獄だと信じていた。
やがて馬車は入口に近づいた。だが、門の表札には刑務所という字は見つからなかった。同乗の女がいきなり大声に笑いだした。年老った門番の老人が、悲しそうな顔をして、静かに門を開けた。錆びついた鉄の掛金がギイと鳴った。老人
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