、日夜私の感情をいらだたせていました。
問。それを知ったら、被告は幸福になれると確信していたのか?
答。かえって不幸になるに違いないと思っていました。
問。人間は自分を不幸にすることのために、努力するものではないと思うが。
答。不確実の幸福は確実な不幸より、もっと不幸であろうと思います。
問。被告の知っている範囲で、その女はどんな性格を持っていたか?
答。巧みなポオカア・フェスができる女でした。だが、それは意識的な悪意から来るのではないのです。彼女は瞬間以外の自分の性格、生活に対しては、何んらの実在性を感じないのです。彼女は自分の唇の紅がついたハンケチさえ、私の手もとに残すことを恐れていました。だから、彼女がすばらしい嘘をつくとしても、それは彼女自身にとっては確実なイメエヂなのです。彼女が自分を女優だと言う時、事実彼女は、どこかの舞台の上で、華やかな花束に囲まれたことがあるのです。令嬢だと言えば、彼女は寝床も上げたことのない懶《ものう》い良家の子女なのです。それが彼女の強い主観なのです。
問。そう解っていれば、被告は何もいらいら彼女を探ることはなかったのではないか。
答。人間は他人の主観の中に、けっして安息していられるものではありません。あらゆる事実に冷やかな客観性を与えたがるものなのです。太陽が地球の廻りを巡っている事実だけでは満足しないのです。自分の眼を飛行機に乗せたがるのです。
問。その女は、被告のいわゆる橋の向うの彼女について、多く語ったことがあるか?
答。よく喋《しゃべ》ることもあります。ですが、それは今言ったとおり、おそらくはその瞬間に彼女の空想に映じた、限りない嘘言の連りだったと思います。もしこっちから推理的に質問を続けて行けば、彼女はすぐと、水を離れた貝のように口を噤《つぐ》んでしまうのです。一時間でも二時間でも、まるで彼女は、鍵のかかった抽斗《ひきだし》のように黙りこんでいるのです。
問。そんな時、被告はどんな態度をとるのか?
答。黙って爪を剪《き》っていたり、百人一首の歌を一つ一つ想いだしてみたり、……それに私は工場のような女が嫌いなのです。
問。被告は自分自身の精神状態について、異常を認めるような気のしたことはないか?
答。私を狂人だと思う人があったなら、その人は、ガリレオを罵《ののし》ったピザの学徒のような譏《そし》りを受けるでしょう。
問。被告は、女が被告以外の男を愛している事実にぶつかって、それで激したのか。
答。反対です。私は彼女が何人の恋人を持とうと、何人の男に失恋を感じようと、そんなことはかまいません。なぜならば彼女が私と会っている瞬間、彼女はいつも私を愛していたのですから。そして、瞬間以外の彼女は、彼女にとって実在しないのですから。ただ、彼女が愛している男ではなく、彼女を愛している男が、私以外にあるということが、堪えられない心の重荷なのです。
問。被告が突き落した男が、彼女を愛していたということは、どうして解ったか?
答。それは、彼がちょうど私と同じように、私が彼女を愛しているかどうかを気にしたからです。
問。彼女の貞操観念に対して被告はどういう解釈を下すか。
答。もし彼女が貞操を守るとしたら、それは善悪の批判からではなく、一種の潔癖、買いたてのハンケチを汚すまいとする気持からなのです。持っているもの[#「もの」に傍点]を壊すまいとする慾望からです。彼女にとって、貞操は一つの切子硝子《カットグラス》の菓子皿なのです。何んかの拍子に、ひょっと落して破《わ》ってしまえば、もうその破片に対して何んの未練もないのです。……それに彼女は、精神と肉体を完全に遊離する術《すべ》を知っています。だから、たとえ彼女が、私はあなたのものよ、と言ったところで、それが彼女の純情だとは言えないのです。彼女は最も嫌悪する男に、たやすく身を任せたかもしれません。そしてまた、最も愛する男と無人島にいて、清らかな交際を続けて行くかもしれません。
問。判決が下れば、監獄は橋の向うにあるのだが、被告は控訴する口実を考えているか?
答。私は喜んで橋を渡って行きましょう。私はそこで静かに観音経を読みましょう。それから、心行くまで、シイカの幻を愛し続けましょう。
問。何か願い事はないか?
答。彼女に私の形見として、私の部屋にある鳩の籠を渡してやってください。それから、彼女に早くお嫁に行くようにすすめてください。彼女の幸福を遮《さえぎ》る者があったなら、私は脱獄をして、何人でも人殺しをしてやると、そう言っていたことを伝えてください。
問。もし何年かの後、出獄してきて、そして街でひょっこり、彼女が仇し男の子供を連れているのに出遇ったら、被告はどうするか。
答。私はその時、ウォタア・ロオリイ卿のように叮嚀《ていねい》にお辞儀をしようと思いま
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