はやはりこの建物の中で、花瓶にさした一輪の椿《つばき》の花のように死んでしまった自分の娘の事を考えていた。男の手紙を枕の下に入れたまま、老人が臨終の枕頭へ行くと、とろんとした暗い瞳を動かして、その手を握り、男の名前を呼び続けながら死んで行った、まだ年若い彼のたった一人の娘の事を。最後に呼んだ名前が、親の自分の名ではなく、見も知らない男の名前だった悲しい事実を考えていた。
10
シイカは朝起きると、縁側へ出てぼんやりと空を眺めた。彼女はそれから、小筥《こばこ》の中からそっと取りだした一枚の紙片を、鳩の足に結《ゆわ》えつけると、庭へ出て、一度強く鳩を胸に抱き締《し》めながら、頬をつけてから手を離した。鳩は一遍グルリと空に環を描き、今度はきゅうに南の方へ向って、糸の切れた紙鳶《たこ》のように飛んで行った。
シイカは蓋《ふた》を開けられた鳥籠を見た。彼女の春がそこから逃げて行ってしまったのを感じた。彼女は青葉を固く噛《か》みしめながら、芝生の上に身を投げだしてしまった。彼女の瞳が涙よりも濡れて、明るい太陽が彼女の睫毛《まつげ》に、可憐な虹を描いていた。
新聞社の屋根でたった一人、紫色の仕事着を着た給仕の少女が、襟にさし忘れた縫針の先でぼんやり欄干《らんかん》を突っつきながら、お嫁入だとか、電気局だとかいうことを考えていた。見下した都会の底に、いろいろの形をした建物が、海の底の貝殻のように光っていた。
無数の伝書鳩の群れが、澄みきった青空の下に大きく環を描いて、新聞社の建物の上を散歩していた。そのたびに黒い影が窓硝子をかすめて行った。少女はふと、その群から離れて、一羽の鳩が、すぐ側の欄干にとまっているのを見つけた。可愛い嘴《くちばし》を時々開き、真丸な目をぱちぱちさせながら、じっとそこにとまっていた。あすこの群の方へははいらずに、まるで永い間里へやられていた里子のように、一羽しょんぼりと離れている様子が、少女には何か愛くるしく可憐《いじら》しかった。彼女が近づいて行っても、鳩は逃げようともせずにじっとしていた。少女はふとその足のところに結えつけられている紙片に気がついた。
11
四月になったら、ふっくらと広い寝台を据《す》え、黒い、九官鳥の籠を吊《つる》そうと思っています。
私は、寝台の上に腹這い、頬杖をつきながら、鳥に言葉を教えこもうとおもうのです。
君は幸あふれ、
われは、なみだあふる。
もしも彼女が、嘴の重みで、のめりそうになるほど嘲笑しても、私は、もう一度言いなおそう。
さいはひは、あふるべきところにあふれ、
なみだ、また――
それでもガラガラわらったら、私はいっそあの皺枯れ声に、
あたしゃね、おっかさんがね、
お嫁入りにやるんだとさ、
と、おぼえさせようとおもっています。
12
明るい街を、碧《あお》い眼をした三人の尼さんが、真白の帽子、黒の法衣《ほうえ》の裾をつまみ、黒い洋傘《こうもり》を日傘の代りにさして、ゆっくりと歩いて行った。穏やかな会話が微風《そよかぜ》のように彼女たちの唇を漏れてきた。
――もう春ですわね。
――ほんとに。春になると、私はいつも故国《くに》の景色を想いだします。この異国に来てからもう七度の春が巡ってきました。
――どこの国も同んなじですわね、世界じゅう。
――私の妹も、もう長い裾の洋服を着せられたことでしょう。
――カスタニイの並木路を、母とよく歩いて行ったものです。
――神様が、妹に、立派な恋人をお授《さず》けくださいますように!
―― Amen!
―― Amen!
(11に挿入した句章は作者F・Oの承諾による)
底本:「日本文学全集88 名作集(三)昭和編」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
入力:土屋隆
校正:林幸雄
2003年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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