の人通りの少い裏通りに轟々《ごうごう》と響いていた。彼は耳を掩《おお》うように深く外套の襟を立てて、前屈《まえかが》みに蹌踉《ある》いて行った。眼筋が働きを止めてしまった視界の中に、重なり合った男の足跡、女の足跡。ここにも感情が縺《もつ》れ合ったまま、冷えきった燃えさしのように棄てられてあった。
 いきなり街が明るく光りだした。劇場の飾灯が、雪解けの靄《もや》に七色の虹を反射させていた。入口にシイカの顔が微笑んでいた。鶸色《ひわいろ》の紋織の羽織に、鶴の模様が一面に絞《しぼ》り染めになっていた。彼女の後ろに身長《せい》の高い紳士が、エチケットの本のように、淑《しと》やかに立っていた。
 二階の正面に三人は並んで腰をかけた。シイカを真中に。……彼はまた頭の中の積木細工を一生懸命で積み始めた。
 幕が開いた。チァイコフスキイの朗《ほが》らかに憂鬱な曲が、静かにオーケストラ・ボックスを漏れてきた。指揮者のバトンが彼の胸をコトン、コトン! と叩いた。
 舞台一面の雪である。その中にたった二つの黒い点、オニエギンとレンスキイが、真黒な二羽の鴉《からす》のように、不吉な嘴《くちばし》を向き合せていた。
 彼は万年筆をとりだすと、プログラムの端へ急いで書きつけた。
(失礼ですが、あなたはシイカをほんとに愛しておいでですか?)
 プログラムはそっと対手《あいて》の男の手に渡された。男はちょっと顔を近寄せて、すかすようにしてそれを読んでから、同じように万年筆をとりだした。
(シイカは愛されないことが愛されたことなのです。)
――まあ、何? 二人で何を陰謀をたくらんでいるの?
 シイカがクツクツと笑った。プログラムは彼女の膝の上を右へ左へ動いた。
(そんな無意義なパラドックスで僕を愚弄《ぐろう》しないでください。僕は奮慨しているんですよ。)
(僕の方がよっぽど奮慨してるんですよ。)
(あなたはシイカを幸福にしてやれると思ってますか。)
(シイカを幸福にできるのは、僕でもなければ、またあなたでもありません。幸福は彼女のそばへ近づくと皆んな仮面を冠ってしまうのです。)
(あなたからシイカの事を説明していただくのは、お断りしたいと思うのですが。)
(あなたもまた、彼女を愛している一人なのですか。)
――うるさいわよ。
 シイカがいきなりプログラムを丸めてしまった。舞台の上では轟然たる一発の銃
前へ 次へ
全20ページ中13ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
池谷 信三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング