池谷信三郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)溶《と》けていた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)非常|梯子《ばしご》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)コクテイル・シ※[#小書き片仮名ヱ、28−上段−1]ーク
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     1

 人と別れた瞳のように、水を含んだ灰色の空を、大きく環を描きながら、伝書鳩の群が新聞社の上空を散歩していた。煙が低く空を這って、生活の流れの上に溶《と》けていた。

 黄昏《たそがれ》が街の灯火に光りを添《そ》えながら、露路の末まで浸みて行った。
 雪解けの日の夕暮。――都会は靄の底に沈み、高い建物の輪郭が空の中に消えたころ、上層の窓にともされた灯が、霧の夜の灯台のように瞬《またた》いていた。
 果物屋の店の中は一面に曇った硝子《ガラス》の壁にとり囲まれ、彼が毛糸の襟巻《えりまき》の端で、何んの気なしにSと大きく頭文字を拭きとったら、ひょっこり靄の中から蜜柑《みかん》とポンカンが現われた。女の笑顔が蜜柑の後ろで拗《す》ねていた。彼が硝子の戸を押してはいって行くと、女はつん[#「つん」に傍点]として、ナプキンの紙で拵《こしら》えた人形に燐寸《マッチ》の火をつけていた。人形は燃えながら、灰皿の中に崩れ落ちて行った。燐寸の箱が粉々に卓子《テーブル》の上に散らかっていた。

――遅かった。
――……
――どうかしたの?
――……
――クリイムがついていますよ、口の廻りに。
――そう?
――僕は窓を見ていると、あれが人間の感情を浪漫的にする麗《うるわ》しい象徴だと思うのです。
――そう?
――今も人のうようよと吐《は》きだされる会社の門を、僕もその一人となって吐きだされてきたのです。無数の後姿が、僕の前をどんどん追い越して、重なり合って、妙に淋しい背中の形を僕の瞳に残しながら、皆んなすいすいと消えて行くのです。街はひどい霧でね、その中にけたたましい電車の鈴《ベル》です自動車の頭灯《ヘッドライト》です。光りが廻ると、その輪の中にうようよと音もなく蠢《うごめ》く、ちょうど海の底の魚群のように、人、人、人、人、……僕が眼を上げると、ほら、あすこのデパアトメントストオアね、もう店を閉じて灯火は消え
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